「道」といえば「その人の生のあり方」に準えて語られることが多い(「カリートの道」・・・)のですが標記の「道」の主人公は「オット」です。
とかく芸能人はじめ「夫婦」それぞれの道の違いで付いたものが離れたなどという話は枚挙にいとまが無く、いちいちつきあってはいられない、「どうぞご勝手に」という感じですが、この「オット」はカタカナで記されている通り、その手の痴話物ではありません。
石山本願寺→和歌山の殆ど負け戦だった対信長との戦闘を天から降ってきたような本能寺の朗報により当山初代今井権七は五家の祖と遠州に下りました。
その五家のうち、当初最悪の土地と言われたであろう鬼女新田の行僧原に河原﨑家が定住しました。
「最悪」が予想できるのは水の手の不便です。特に鬼女新田は台地上にあって水脈は谷の底。今80歳以上の方々から聞くには、学校から帰れば、「谷に降りて水汲み」という辛い家の仕事が日課だったとのこと。
当時、外から入った嫁たちは、大家族中、最後に風呂へ入りますが、薄暗い風呂場で垢が泥のように体にまとわりついてきた時は気絶しそうになったといいます。
その鬼女新田から現御前崎市浜岡池新田地区に下りた家がありそちらからの新家した系統があります。明治初期の役場の記述ミスから「河原﨑」が「川原﨑」に苗字が変わってしまったそうです。
結構いい加減な付けられ方をしたものです。明治の、特に日露戦争直前の「やっつけ」的に苗字を確定させた時期ですね。
よってこのような違いが発生しますが、他所でもその手の事はまたぞろあったことと思います。
さて、池新田地区の川原﨑家、河原﨑家その他当山檀家さんの家々には色々な用件で回らせていただいていますが、いつからか「意味不明の看板」については見知っていました。
その看板が「オットの道」です。 ③画像。
今では忘れ去られた「道」で、住宅街に残るこちら周辺に住む一部の人たちの記憶にしか残されていない歴史が隠れていました。
色々聞いて歩きましたが殆どの浜岡に住む人は知らないでしょうね。ちなみにこの道のすぐ近くに居たことのある私の叔母81歳も「知らない」と言っていました。
調べてみると、「オット」とは機関車のことで、この道に池新田と堀之内(現菊川駅)を繋げた軽便鉄道が通っていたということがわかりました。当山総代の川原﨑氏によれば、その機関車が通る前のその線路道は馬車道だったそうです。
相良人にとって「軽便」と言えば東海道線に成りきれなかった「駿遠線」を思い起こしますが、それよりずっと昔の話だったようですね。
浜岡池新田の始発駅は、相良―大東線(372号)の池新田地区に入っての直線が微妙にズレる場所。地元ではお馴染み「相良萬」辺り(④画像)から、その向かい現在の「美津屋」という料理屋付近と聞きます。
画像はその「美津屋」より北に50m程度、現在の丸尾医院の裏の路地です(場所はここ)。
丸尾医院は当ブログでも何度か登場している高天神衆「本間・丸尾兄弟」の「丸尾」です。池新田地区には両家の末裔の存在はかなり知られています。
特に当山との関わりは本堂襖絵の「丸尾月嶂」ですね。
丸尾家から出た絵師でした。①②医院の看板にも「月嶂」の名が見えます。
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