城の縄張りと普請は出来るだけ経費を掛けずに行うということは当然のことです。予算はかけられません。
ちなみに普請(ふしん)とは・・・城関係でその語が登場した時は「土木工事」の事ですが、大元は禅宗系寺院の語が発祥と言います。「普く―あまねく― 請う」ですからお寺が「すべての人たちにお願いする」という意味です。
弁慶の勧進帳でお馴染みの「勧進(かんじん)」などもその手の意味で浄財寄進奉納を依頼するものですね。
ちなみにおカネをおねだりする意の「無心」も禅宗から来た言葉です。偶然か字体は違いますが「シン」とか「ジン」という音が共通します。何と言っても「信心」が無ければ要請には承服できませんからね。
しかし室町期の領主による城普請には民衆の選択肢などはあるはずがありません。少々でも日当支払があったのかはわかりません、いや「民の命を守るため、たすけるため、風」のいつの時代でもその手の声を耳にしそうな為政者の詭弁に惑わされ、あるいは強制させられたかの図だったことでしょう。
よって民にあまり負担がかかりにくい、秋の収穫後から春までの冬季間が普請事業の開始になったのではないでしょうか。戦闘の開始時期と同様だと思います。
拙寺においても当代で築地塀、本堂修繕の大普請を行っています。戦争直後?の当山本堂修繕の普請への檀信徒の対応は殆どが人足としての直接参加型だったようです。近隣の人々も巻き込んで、ロクな足場も組まず、殆ど梯子一本で老若男女、本堂の屋根に上がったといいますね。
それが本来の普請であって、要は「土木工事人足徴用」でもありました。
当時は入江であり遠州灘との船舶兵糧の起点となった中村砦(雑賀砦)は、今川以前は斯波氏系雑賀氏の城館でした。
この雑賀氏は斯波系ではありましたが当地にありがちな時宗では無く、日蓮宗です。
雑賀肥後守吉長は当初おそらく京都にあって斯波氏から遠州へ下向の令を受けた地頭あるいはその代替在地新領主であって、信仰する日蓮宗のお寺をこちらに勧進したのがこのお寺でしょう。勿論斯波系と記したのは直臣ではなく陪臣クラスの家臣だということです。
以前、満勝寺さん(場所はここ)の裏山の尾根伝いについて記しました(ブログ)が、あの大きな「堀切」ではないかと思える場所からそれを超えて薮中を北側に行けば砦の裏山に出られます。
この砦のある山稜の北は午後となれば、日に隠れて、また湿っぽく決していい環境であるとは言えませんが、一応城詰めの家臣たちの館があったといいます。
さて、上述「堀切」?から南側の現在の住宅地方向に下りたら例の高天神城御前曲輪の主将斉藤宗林屋敷址の更地(地図は上記)に出ます。
斯波氏の家臣団であった雑賀氏が今川氏の侵攻によって憂き目を見た事は推測できますが(ただし当地雑賀姓多し)、武田-徳川による高天神城争奪戦の中、この屋敷の位置から言って、雑賀中村の砦に関して斉藤宗林が関わっていたことは大いに推測できます。宗林の墓がある駿河の宗林寺さんもそうでしたが日蓮宗です。満勝寺さんとの関わりも気になる所です。
宗林屋敷の位置はとても効率的に本城の高天神城へ入れる場所です。屋敷の裏手から尾根伝いに北上しても、西側の小笠川を舟を使ってもいいですね。もっとも舟と言っても原動機の無い時代は両岸から人力によって曳くという方式ですが・・・。
画像は満勝寺さん墓地。宗林屋敷址と同様南面し、背後は砦の丘陵です。墓地あまり遠くない時代に整備されていますが、この古そうな宝塔はかつて本堂裏手の砦本曲輪へ向かう場所にあったとか。
⑤は日蓮宗で松永久秀に並んで代表的な戦国大名、加藤清正を祀る清正公堂がなぜかあります。清正といえば旗印でもその号を記したほどの人でした。
その旗印は朝鮮出兵時に秀吉から贈られたもので、小西行長の「切支丹の薬屋出自」を馬鹿にしたといいます。
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中山 (水曜日, 21 3月 2018 14:27)
斎藤宗林屋敷跡を見てきました。裏山の雑賀氏砦跡を利用し砦とした
今井 一光 (木曜日, 22 3月 2018 12:17)
ありがとうございます。お久しぶりです。
あの辺りから高天神までゆっくりと散策すれば新しい発見もあって楽しいですね。