画像は真宗聖典の大無量寿経下巻から。仏が弥勒菩薩に対して説法したところです。
「報復」という語が、気持ち的に引っかかりましたので2カ所抜粋してみました。
蛇足ですが大無量寿経は阿弥陀経(小無量寿経)、観無量寿経とあわせて浄土三部経の筆頭、真宗の主たる経典です。
かといって拙寺法要ではあとの2者はちゃっかり読誦しているもののぶっちゃけ未だこの略して「大経」を拝読した事はありません。
理由は長文タップリだからですね。
私からすればチャレンジしてみたいのですが何せお相手があることですし、今のところ控えさせていただいています。
こういうところが生臭坊主たる由縁でしょうが。
世はせっせと「報復」流行りです。
ちなみ仏典では「ほうふく」でなくて「ほうぶく」。一般的な「懺悔」=「さんげ」の仏教読みとは逆に濁ります。
意味的には現在と同様「やられたらやり返す」ということでしょうか。これは何もイスラム世界だけのお話では無く、仏は人間社会すべてにおいて「人と生れた業」と。
表記「相従共生 更相報復」画像①は「私も彼者(敵)もこの世に生れて更に報復しあって」というようなところでしょうが、そのあとの「無有絶已」の通り、「絶えてなくなることはない」とも・・・。
そのあとは「それぞれの痛みというもの筆舌に尽くし難く」「一の大悪」「一の痛」「一の焼」といってその業苦は、譬えば大火によって、人身を焼き尽すよう・・・
あたかも現在の「戦争世界の連続」を表現しているが如くです。
その大経の「更相報復」(きょうそうほうぶく)が出現する箇所で特に好みの文言が続くところがあります。聖典からピックアップした上記より少し前に記されています。(P67→P59②P60③)。ページが変わりますので②-③と連続します。
こちらは、いわゆる「三毒」と言われる人間の煩悩の根本で克服すべき最大課題と言われるもののうち―「貪欲・瞋恚・愚痴」―瞋恚=怒りについての御説法部分です。
「然含毒畜怒 結憤精神」とは「然るに毒と畜生の心と怒を含み、憤りを心中に結び」ですね。その結果、どうなるのかといえば、「皆當對生 更相報復」・・・「私も彼方(敵)も皆、同時世界にあって更に報復しあう」ということになるというのでした。
その後に続く以下の文言は、通夜式に拝読している「改悔文」の裏表紙に小さく記しています・・・これは私のオリジナルですのでご容赦いただきたい。その「改悔文」は翌朝に棺に納めますがそれにはこう記してあります。
人在世間愛欲之中
獨生獨死獨去獨來
當行至趣苦樂之地
身自當之無有代者
人 世間の愛欲の中にありて
独り生じ 独り死し 独り去り 独り来たりて
行にあたり 苦楽の地に至り赴く
身自らこれを得くるに たれもかわることなし
これが無量寿経にある仏の「突きはなし」で有名な
「独生 独死 独去 独来」(どくしょう どくし どっこ どくらい)です。四門出遊(生老病死)のエピソードにも似た「ハッ」とさせらる「厳しさ」のようなものを感じさせられます。
「甚だ難しいことではあるが、そうであるからこそ三毒の如き煩悩の病から努めて覚醒して欲しい」ということでしょうか。
「貪るな<餓鬼> 羨むな<畜生> 怒るな<修羅>」=地獄・・・であることは十二分に承知しているのですが・・・この世界いつまでその連鎖が続けられるのでしょうか。
私は上記3つのうち前2つが「経済と貧困」そして3つめが「戦争」であると思えます。
「経済の発展は他者の貧困の上に成り立つ」(勝組と負組)という理論が正論としたら「経済発展の目標は平和ではなく往往にして戦争につながる」という不安定未来の危惧をも感じている今日この頃です。
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