家康が武田方に渡った高天神城を落すに、それを取り囲んだ砦群は代表的(六砦)なもの以外に無数の砦が付けられていました。それらが衛星的にあって連携し、街道筋を抑え込んで、兵糧の搬入を主な目的に城と外部とを遮断、城からの兵員の脱出を阻んでいました。その辺のところはブログでも何度か記しています。
家康はその高天神城攻めより遡った永禄十二(1569)年、信玄から駿府を追われて掛川城の朝比奈泰朝の元に逃げ込んだ今川氏真を攻めたてるために掛川城を真向力攻めではなく、「六砦」の一つ、小笠山砦(笹ケ峰御殿)を中心に掛川城を無数の砦を築いて包囲しています。家康が長期滞在を目論んでこの堅牢なお山の頂上に城館を建てたといいます。
小笠砦は掛川攻めにも高天神攻めにも家康に重宝に使われた大きな山系を利した城塞でした。
その小笠山山系は地元の方たちからすれば法多山尊永寺でしょうが、私らとしては何と言っても2002年の日本開催のW杯、日本戦の裏番組だったロシア―ベルギー戦が開催された小笠山総合運動公園(エコバ)スタジアムですね。
あの時はやっとの思いでゲットしたチケットを握りしめて「奥の墓道」と観戦しました。
その運動公園の直近のJR「愛野」駅がありますが、試合終了後の大混雑に駅方向へ寄りつけず、周辺をうろついた覚えがあります。小笠山の裾を掛川方面に歩いて行くと市街地に降りる手前に池と東海道新幹線の高架が見えます。高架の向こう側が大きな工場が見えますね。
この池を掘に見立てたのか、池は後世になって作られたのかわかりませんが、掛川城包囲網―付城として機能した曽我山砦があったといわれる場所です。
「元は古墳だったかもしれない」という竹藪を歩けばどなたかの墓地であったことがわかりますが、現在は参拝者は居ないようです。東西に曲輪があったそうですがおそらくそれらを分けたであろう堀切らしき窪地のラインはわかりました。しかし本当にそうなのかまったくハッキリしないほど、遺構は残っていません(場所はここ)。
こちらも冬場でなければこの藪の中にさらさら入ろうという気はおこりませんね。ただ興味が先行して入ったのみでした。
W杯の帰りに掛川まで迎えに来てくれた父は既にお浄土、その助手席に座っていた母も現在こちら小笠山麓に建つ「中東遠総合医療センター」に。
東名高速小笠SAから南側で大規模な工事が行われていた場所でした。「掛川市+袋井市」の病院です。
母の病は大した事無いのですが、色々あって何故かこちらの大病院に担ぎ込まれました。
それはそれは「美しすぎる病院」。よく相良人の「余生は掛川で」という声をよく耳にしますが、この病院に担ぎ込まれて往生できるのなら「これ、本望也」という感じでしょう。
土曜の午後ということで平日にありがちな「殺人的混雑」がなかったこと、晴れ渡ってクリアな視界、遥か遠くが見渡せたということも、ここに極楽を感じさせた由縁でしょう。
画像は7階の談話室から。富士山、粟ケ岳、掛川城(①青〇)はじめ掛川市内が一望できます。西に目をやればはるか浜松の市街まで(③赤〇)見渡せます。
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