私どもがこちらのお城に向かったのは数年前の丁度この時節でした。何しろ「内陸系」の寒さ?というものを体感した覚えがあります。
堀に氷が張っていたのもそうですが、朝方ということもあって霧まで出て吐く息も真っ白。「空気が張り詰める」の感ありました。
先日は仇討物が大好きな日本人、伊勢亀山の石井兄弟(元禄曽我兄弟)について記しましたが、こちら(上野)にも日本三大仇討として(曽我兄弟・忠臣蔵に次いで)各演劇等で物語される事件がありました。
「鍵屋の辻の決闘」とか現場が伊勢街道と奈良街道の辻であったことから「伊賀越の仇討」等呼ばれています。
「荒木又右衛門 鍵屋の辻36人切り」で講談などで語られて、四半世紀ほど前ではNHKでドラマ化されています。主演は仲代達也でした。
どこでどうなると「36人斬った」ことになるのか、荒木又右衛門が斬ったのは2人というのが史実のようです。
この仇討劇は又右衛門の父が藤堂高虎に仕えていたということもあってか藤堂家が同情して支援していたといいます。
さて、伊賀上野城の石垣が何故にしてこのように堅固に高く積み上げられているかといえば、家康が藤堂高虎に大坂城の橋頭保として築かせたためです。
もともとの上野城は秀吉が大坂の外を護るために大和郡山城に入れた豊臣秀長のさらにそれを補完するための城(城主は筒井定次―順慶の養子)でした。
当然に筒井の城の矛先は大坂の外に向かっていたのですが、後に入った藤堂の城の作りは将に大坂に向かっての城だったわけです(場所はここ)。
当初藤堂は五層の天守を建てたそうですが、すぐに台風で崩壊してしまったということと、大坂の陣にて豊臣氏が滅亡したため、本来の目的が無くなったということで天守の再建はされませんでした。
それにしても、築城の名手といわれた藤堂高虎の城が台風直撃とはいえあっさり倒壊してしまうとは・・・
ということで天守が今ある事が不自然ですが、まぁ折角だからということで入場券を買って入りました。写真撮影OK!!は良かったですね。
鉄筋コンクリートの資料館は小田原城にも似ています。
⑪は仇討の図。
⑫3階の天井に貼られた横山大観らの色紙。首が疲れました。
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