西欧米国を敵に回したらやられるよ    渡辺崋山

特にアメリカと喧嘩することの愚かさは嫌というほど知らされている我等日本人。大東亜共栄圏なる欧米列強と対峙した「日本を盟主とする新秩序」を建設しようという大風呂敷はアメリカサイドから見れば現在の「イスラム国」とそう変わらないものだったというのは、ある意味正論でしょうね。

 

プロパガンダの手法としてはビラ撒きかラジオの「東京ローズ」はあったものの、より視覚的・効果的な「YouTube」様ではなかったことが今との違いくらいでしょうか。

独りの人間の命を奪う映像をネット上で散々見せつけられて、大いなる違和感(恐怖と忿怒)を惹起させることが彼らの目的だとしたらそれはそれで目的は遂げられているのかも知れません。

 

弱者貧者敗者の戦争形態であるテロリズムの効果とは、都市ゲリラ的に平和社会内部に深く潜伏して「時として暴発し主張」する程度しか本来の効果は無いものでした。

それは十分に脅威ではありますが、現在存立する「国家」に対する「不満の爆発」といった抵抗はもはや不可能で無意味。

異議・主義主張は武力では無く、「ペン(筆)と言葉」で行うというのが世界の常道(当たり前)です。これは今の日本がアメリカから教わったことですね。

そういうご時世ですから、国境を設けない暴発的宗教国家の樹立など世界中、誰も許すはずはないことです。

 

オバマ大統領の遅きに失した感があるといいますが、「連合軍」はあれを機に空爆を再開し、今後イラク主体の地上軍が侵攻されるという「イスラム国」一掃のオペレーションが開始されるとの噂です。

 

空爆でイスラム国家の戦闘員を「7000人殺した」と、ヨルダン政府が発していました。その報を聞いていて不思議に思う点があるのは私だけでは無いでしょう。

その「7000人」という数字の根拠と、戦闘員以外の死亡者の事に触れられていないのが不思議です。現地に潜伏している地上の情報源があるのでしょうかねぇ。

 

今一つの私が思うことは・・・、そろそろ3月10日、106回に上った東京大空襲の最たる被害のあった日が近づいています(1945年―戦後70年)。今耳に馴染んだ言葉で言えば「空爆」ですね。

今のそれは一応レーダー照射による「ピンポイント」。

ところが爆撃機B29による東京へのそれは「無差別爆撃」でした。その日だけで市民10万人が焼死して、罹災100万人。

最初から一般市民の大量虐殺が目的だったのです。

その後に広島と長崎に原爆が落とされて日本の無条件降伏となったのは御存知の通り。

 

日本のしたであろう加害行為への「復讐」であってその「加害」について無視して考えれば、それらは今でいう「ホロコースト」と言ってもいい日本の被害状況ですね。

すべてのことが「戦争を早く終わらせるため」の大義、大量殺戮兵器の使用との事ですが。

 

私もどうしても映像で見た生きたま火を点けられて亡くなったヨルダンパイロットへの同情と火をかけた武装勢力への怒りを感じずにはいられませんね。しかし上記ホロコーストを演じたアメリカの大量殺戮に関して、たとえば3月10日の東京空襲の10万人は単純に「生きたまま火を点けられた人はそれの10万倍」などと考えてしまい、どうもその辺り腑に落ちないところなのです。

 

まず、日本人は「許し」こそ美徳の国民ですしアメリカは戦争を仕掛けた相手でしたのでそちらにコテンパンに伸されるのは文句は言えないのでしょうが、国内の政治思想をまで許してしまっては、戦没者に申し訳ありませんね。

戦争に加担して加害も被害も無い国を作るという約束をした筈でした。

 

ハリウッド映画で育った私の世代は今の中東で行われている映像はまるで映画です。

政治思想抜きで、今にイーストウッドやランボーやシュワちゃんが出てきて「悪い人」をやっつけるという映像を期待してしまいますが、そのイメージが植え付けられて育った私はどうしても「アメリカを敵に廻すな」ですね。誤解を招くといけませんので、付記しますが、これはあくまでも「武力」のお話です。

 

さて、御存知のように江戸幕府が「開国」という画期的な対外運営に舵をきらされたそのきっかけはアメリカのペリー来航(嘉永六年1853)ですね。

それ以前に色々な国の船が来航していて当所の幕府政策、「異国船打払令」(文政八年1825)によって蹴散らしていましたが大きな転機、「こんなことでは、いつかはやられる」と感じて軟化するきっかけとなったのはアヘン戦争(1840~)で清国がイギリスに大敗したことでした。

 

しかし、その教訓的なお隣の国の敗北直前(天保八年1837)に「モリソン号事件」という非武装のアメリカ船に大砲をかましたという事案がありました。当時、渡辺崋山は『慎機論』を著して「こんなことでは・・・」と幕政を批判しています。

 

ちなみに崋山は「蛮社の獄」で腹を切りますが画家としてもその才ある彼は昨日ブログで記しました邯鄲(かんたん)をタイトルとした画を描くために、腹を切るのを繰り延べたというエピソードがあります。彼の達観でしょうね。

 

『慎機論』の内容は当時としては幕政批判でありいわゆる過激すぎる内容で、そもそも当人は表に出すつもりは無かったのですが、江川英龍ら蘭学者に支持されていたという理由で自宅を捜索され、たまたまその書が見つかってしまったといいます(→「蛮社の獄」)。

その書物の内容を理由に崋山は拘束、蟄居のうえ切腹するという最期を迎えたのでした。

そもそもそれは「自由な意見を述べる」事への懲罰であり、幕府への最大なる「忠告」であったわけなのですが幕府にはそれを聞く「耳」がありませんでした。

 

この段階で幕府方に渡辺崋山の意見へ耳を傾けるという鷹揚さがあればもっと違った幕末と今があったかも知れません。

以降、行きすぎた「攘夷運動」から討幕への大義を醸出させてしまった感があります。

まぁ海外へ進出(侵略)するよりもまだ鎖国していた方が戦場とはなりません。開国した途端に日清・日露に15年戦争と進んだのですから・・・、どちらがよかったやら。

 

崋山の「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書の通り、遺族は墓さえも建てる事を禁じられていました。ただ幕府が倒れる直前、幕府より彼への許しが出ています。

 

画像は愛知県田原市城宝寺(場所はここ)の彼の墓と崋山の邯鄲を描いた「黄粱一炊図」。