「仁(じん)なる徳(とく)」  素直な日本の心

それにしても昨日の拙ブログでの危惧の通り、復讐の復讐がそのまた復讐を呼んで「怒り」の連鎖が収まりそうもない雰囲気。

日本のソーリ様が「報いを受けさせる」と、まるで復讐を臭わせるような発言をして、やれやれ先が思いやられる次第です。

 

今回のヨルダンの死刑囚の処刑をメディアは「報復」という表現を使っていましたが、ソーリのその「報い」とはあの件の「報復」であり、あたかもヨルダンとの意思の疎通があったという風に受け取れます。しかしあのおばさん風の女性死刑囚を処刑して一件落着したという感じには到底なれませんね。

「そして誰もいなくなった」(アガサ・クリスティ)の登場人物を演じさせられているようにも感じます。

 

さて「蟪蛄は春秋を知らず」という語の出てくる荘子の「逍遥遊」の節にはミソサザエという鳥についても記しています。

自然の中を飛び回る小動物を目にして感じた事を「自由」に記したといいます。

当ブログでは「鷦鷯(しょうりょう)」という名称でかつて記しました。鷦鷯はスズメよりも小さな鳥で「王と呼ばれる鳥」と言われています。

 

その発想は何も我が国だけではなく案外と世界的に共通したところとも聞こえています。「鷲や鷹より偉い」等・・・アニメの日本昔話では凶暴なイノシシに勝った・・・色々なお話に登場しているようです。

 

昨日のブログの最後に眉輪王(まよわのおおきみ)が日本史上初登場の仇討と記しました。

眉輪王の父親は仁徳天皇の皇子、大草香皇子。でっちあげの罪で安康天皇(即位前)に殺されます。

安康天皇はそのまま大草香皇子の未亡人を皇后に据えました。勿論子連れ(眉輪王)ということになります。

 

書物では彼が「たまたまその件」を耳にしたとありますが、誰かに吹き込まれて、憎しみの中で成長したと捉えるのが常識的。

結局怒りは醸造されて天皇殺しと相成ります。どちらにしろ「記紀」の事、どこまでが真実かわかりませんが・・・。

 

殺した方、殺された方二人の祖父はともに仁徳天皇です。

二人とも悪意のある取り巻きというか配下の者によって錯誤に陥れられ、一瞬にこみ上げたり蓄積した「怒り」というものに負けてしまったのでしょう。

「怒り」は自制心も事の真相を探求するという余裕も喪失させてしまいます。

孫たちの殺し合うその愚かさを一番に悲しんだのは亡き祖父、仁徳天皇であったはずです。

 

天皇は「仁徳」という名の通り「仁(じん)徳(とく)」の天皇であったと言われています。 

そしてその天皇が古くから「鷦鷯―ミソサザイ」であると形容されているのです。

一瞬あの日本最大の墓地(それどころか世界三大墳墓の一つ)の主人、天皇の中で、今の子供でもその名を知っている「王の中の王」、仁徳天皇とその小さな小鳥が・・・?と少々不思議。

人間の歴史の中で、モノや動物への畏敬や何かの信仰らしき姿勢は変遷するでしょうから、何とも言えません。

 

世界的にその小鳥への「敬意」は共通しているということから私たちがミソサザイの生態について不知であり、観察力も欠落していることもあるでしょうね。

 

前述の「昔話」でのイノシシの倒し方はイノシシの耳の中に入り込んで暴走させて、木に衝突させていました。昔話では偶然に耳の中に入ってしまったという描き方でしたが、それが策略であったとしたら・・・ということでしょうか。

 

今の日本の姿としては海外へ威勢(虚勢に見えるのは私だけか)を張るのではなく、ここは厳めしく儒教的なものでなく、素直な仁徳天皇の「仁の徳」(人に対する優しさを発揮する能力)を、そして何よりも「逍遥遊」、「鷦鷯巣於深林、不過一枝」の心が大切だと思います。

 

争いの無い世界を阻害するものはもとより「他者より勝ちたいという精神」にあります。「戦う」という意思をどちらかが、まず切り捨てることができればいいのですが・・・。

 

その意思に反する人たち(一方的な戦闘意識)に面と向かって異議を申すこと以上に挑発的態度で向かうというのはアジアの小国の一市民として大いに違和感があるところです。

解決策は私には見つける事はできませんが、せめて「人として」努力して欲しいです。そのことを見失えば「そして誰もいなくなった」ですよ。その諸処の発言が将来の戦闘行為や軍事力の派遣を国民に容認させようという雰囲気作りでしたらもはや失望の域。

 

2月になると日本中の低山・平地、藪の中、市街地どこにでも聞くことができるというミソサザイ、耳にしてみれば皆さんも耳に馴染んだ声、聞き覚えがあるでしょう。YouTubeで聞けます。

 

画像は昨夏に次男と行った百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)―仁徳天皇陵・大仙陵古墳。

堺市博物館付近(場所はここ)散策の図です。

「百舌鳥耳原」は看板②の通り、「鹿を倒したのは耳の中に入り込んだ百舌鳥(もず)」になっていますね。

小鳥が耳の中に入るということがミソ。ミソサザイがイノシシに勝ったという「共通」のお話です。

 

武力よりも「言って聞かせること」平たく言えば「交渉」「説得」「話し合い」ということが大切であるということを示唆してしているようにも感じます。「小さきもの」は特にです。