遠・近の言葉遊び、結構に面白がるは私の性分。
何と言っても当家を含め多くの当地門徒衆が、彼方の昔、近江を出自として、遠江の地に参ったというそのご縁の不思議です。
京に近い淡海=琵琶湖=近江、遠い淡海=浜名湖=遠江の呼称の区別。近州から新天地を求めて出立するに「そこ」(遠州)でなくてはならない理由があったのでしょう。
私はただただ単純にその「淡海」+「遠・近」の言葉の類似だけの選択だと思っています。私もそうですが当時の人々は当然の如く、「遠くても近い場所、近江」をずっと思い続けていたのだと思います。
いざとなれば、何となく行くことができる場所でさして遠くも無く大して労する場所ではありませんでした。勿論、遠州にやって来たばかりの御先祖様の気持ちはいつも「心は近江」だったことは大いに推測し得ます。
さて、清少納言の枕草子167段に現在、よく使われている諺様の語、「遠くて近きは男女の仲」なるものの元になったであろう言葉が記されています標記③。
この諺?はちょうど来週のNHK朝ドラ「マッサン」の週タイトルにもなっているようです。
②の「舟の道」とは海路・水路のことで、山谷超えての陸路と比して、「楽に、あっという間」を意味しますが、親鸞さんの正信偈の譬えで云えば龍樹さんが言ったという
「顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽」でしょうか。
ちなみに「修行は陸路に等しく難行道」で「信心は舟道で易行道」という意です。
話が飛びますが最近この箇所を拝読する際、「顕示」とは「あきらかにしめされた」の訳でいいのですが、読みが「KENJIさんの難行」と読めてしまい、ついつい今イスラムの地で拘束されている後藤氏を思い浮かべてしまいます。
あのように心やさしき人には人類にとってもまだまだたくさんの仕事が残っています。宗教を超えた「寛大さ」をお見せください。何とか日本に還していただきたいものです。その際は歓喜し、感謝します。
この3つの言葉の羅列で①番最初に記された語「極楽」の一語が私が一番に強調、主張したいものであることは既にお察しの通り。
やはり清少納言も「遠くて近いモノの一番」を「そう考えていた」ということ、浄土を示す坊主として改めて感動するところです。
その点は昨日のブログの通りですが、昨日の一休さんが歌ったものと対で同様の意をうたった(一休さんの)歌と当流経典からその出典を示します。これも孕石さんの言う通り。
「阿弥陀仏 悟ればすなわち 去此不遠(こしふおん)
迷えばはるか 西にこそあれ」
「去此不遠」~ここをさること遠からず~=「近い」ということです。画像左、浄土三部経の一、「観無量寿経」の一説にあります。
同画像②は「阿弥陀経」から、「過十万億佛土」の部分で、遥か彼方、無茶苦茶「遠い」という意味。
経典の一つでは「遠い」、また一つでは「近い」というところを深く読み解かなくてはならないですね。
答えは「信心です」といってしまえばそれでおしまい。
また、逆に「近くて遠きもの」の一つに「縁遠い兄弟親戚の類」があげられているのもなるほどです。どの時代も同じですね。
蛇足ですが、観無量寿経には「一一光・・・」という語彙が複数(右画像青線)出てきますが、祖父は私の名をここから持ってきました。
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