2代目というのはお坊ちゃまで愚鈍というのが定番の様ですね。
隔世遺伝なのか初代の意相を汲んで3代目で修正をかけてくるというのも同じような気がします。そして15代目で終わるというのも同様。ちなみに私は15代目ですが・・・。
室町幕府2代義詮を誹謗する話はありますが、確りと父尊氏(高氏)の意向通りに動き、軍略的にも成功譚は案外ありますね。
義詮の墓について、昨日三島の宝鏡院にあるそれを記しましたが、実は38歳で突然死した彼は生前から「そのときはここへ」という墓所を決めていました。
それが京都嵯峨野の観林寺で、平安期は善入寺の名のり。今の善入山宝筐院です(場所はここ)。
寺の名称が何度か変わって、荒廃して一旦は廃寺の如くだったといいます。
そして京都宝筐院―三島宝鏡院の字面は、かなり似ていますね。そもそも「宝筐院」という院号は義詮の院号でした。
この京都の寺は、自身義詮と父の尊氏ともども長年の宿敵であった南朝の雄、楠木正成(大楠公)の嫡男で「小楠公」(しょうなんこう)と呼ばれる楠木正行(まさつら)の菩提寺でした。
正行が一族率いて河内四條畷の戦いで足利軍(高師直兄弟)に大敗して自害したあと、首をこの寺に持ち込んだということでしょうか。
義詮にとって南軍(南朝方)の宿敵の将であったものの、明治期になって天皇家への忠臣が評価されて英雄化(もっとも戦時下の「国のために死ぬ」風の美談として宣伝されたという国のプロパガンダに使われたのですが・・・)されたように人間的にも鷹揚そうで知略に富んだ武将のようで、南軍勝ち戦の際にも、川に押し出されて溺れ、また負傷した北軍(北朝方)兵を助けて敵陣に送り返すという話があります。
そういった男意気に感じ入ったか義詮は「正行の墓の傍らで眠らせてもらいたい」との遺言を残していたとのこと。
私が嵯峨野の宝筐院を訪れたのは夏場でした。
この寺は紅葉の名所でもあります。再建されたのが明治以降、本尊は千手観音⑦。
⑮の歌碑は正行が吉野の如意輪寺の門扉に矢じりで彫った辞世の句です。
「かへらじと かねて思へば梓弓(あずさゆみ)
なき数に入(る) 名をぞとどむる」
一族143名の名を堂の壁板を過去帳に見立てて「名をぞとどむる」ということでした。
墓域の門に刻まれた楠木の菊水と足利の二つ引き両の家紋が光っています。右側の五輪塔が楠正行の首塚。左側の三層の石塔が足利義詮です。いい味出しています。
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