堀越公方足利政知と足利義詮の墓 宝鏡院

私の小田原在住時代、相良から小田原方面に行く場合は東名沼津インターを降りてから箱根越えをしました。当然に三島市内を通過することになります。尚、現在は伊豆縦貫道がインターに直結していますので、三島の混雑地は通過しません。


通常は国道1号バイパスの使用がベストですが、突発的に激しく混雑することに遭遇していましたので、ある時、まだナビなどのハイテク装備が無い頃、勘だけで246号線辺りを左折して、三島の中心街を抜けてやろうとチャレンジしたことがありました。


たまたま正月三が日明けの日曜あたりだったと思いますが、どうにもならないような渋滞にハマったことがあります。渋滞の微動だにしない市内で「素直にバイパスに回っていれば・・・」と思いましたがあとの祭り。

実は「あとの祭り」どころかこの地区では有名な三島大社への初詣客で祭りは真っ最中だったのでした。踏切と信号ばかり、駅前の通過もあって散々な思いをしました。


さて、その三島大社からさらに箱根より、先日お知らせした「山神」の宝光寺稲荷山からは西側に宝鏡院というお寺があります(場所はここ)。


不思議な有名人のお墓2点、諸々の由緒ありげなお墓があります。標記堀越公方の足利政知と室町幕府2代将軍の足利義詮の墓です。

二人は同じ足利幕府の関係者、というか同血統ですが時代的にかなりかけ離れていて、こちらに一處するということにかなり違和感があります。

将軍義詮の墓が何故にしてこちらにあるのかということも寺の由緒を見ただけでは今一つ腑に落ちないところでありますが、父親の足利尊氏の名代となって鎌倉方面への往来がありましたので、その途「箱根超え前の一泊」として使用するための寺院だったのか、何らかの縁があったことは推測できます。よって供養塔としての意味合いで宝篋印塔を建立したのかも知れません。

この辺りのところ殆ど推測の域を出ませんが、何かしの縁者が居て、昵懇にしていた者が、その追善のために、後世になって故人のその生き方に傾倒した者(ファン)が墓碑を建立することなどまたぞろあることですから。

政知の場合、韮山からはそうは近いとは言えませんが、東海道でより人目に触れやすいということ、御先祖様である義詮の生き方に惚れて生前からここに入りたかったということを周囲に告げていたということもありますし、流れ流れてこちらに行き着いたということかも知れません。


一番立派な宝篋印塔が足利義詮のものとはわかりますが、周囲にはたくさんの五輪塔があってどちらが足利政知の墓であるかなど特定できません。今のところ「伝承にすぎない」と言われても致し方ないのかも知れません。

ただし、前述の稲荷山にその本来の墓域があって、一時荒廃した際にこちらに避難してそのまま今に至ったという説もあるようです。稲荷山は足利政知にとって見果てぬ夢の鎌倉方向を望む地、こちらに眠っていたということも考えられます。


宝篋印塔は室町前期以前の古めな佇まいを醸し出していますが、ベースの台座は後付の嵩上げのような感じ、よくある余計な仕事かもしれませんね。


①は境内からの富士。

鞍掛け石や笠置き石等の存在はこのお寺が当時旅人の何らかの目的での滞留があった場所だったことがわかります。