おば様たちの朝のひと時、国民的ドラマの「マッサン」のキャラについてその演出が今一つといわれています。
煮え切らない、優柔不断、うじうじ、うるさいだけという主役に苛立ってチャンネルを合わせない視聴者が増えているのだといいますね。まぁ絶大の人気を誇っているドラマ時間帯ですのでこれから修正してくるのでしょうが。
ところで日本史上「自己主張」の強烈さと組織の運営では1枚も2枚も上手の「マッサン」がいますね。
頼朝の正妻「北条政子」です。
源頼朝が流刑人として伊豆に流されてしばらく、監視役の伊東祐親が京都の大番役として上洛している間に祐親の娘、八重姫を妻とし、千鶴御前を産ませました。
お役交代で伊豆に帰ってきた祐親はそれを知って狂気となってその子供を殺しました。
頼朝にも追手を差し向けますが助けたのは北条時政。政子の父ですね。
結果論ですが伊東祐親はここで最大のチャンスを自ら消失させたのでした。
以前「チャンスの神様」について記しましたがまさに絶妙この上ない出世の機会を自らの短慮によって放棄してしまったのですから周囲からの目とその悔恨は半端無かったでしょう。
普通に考えれば北条家の如く幕府内で権威を持てたであろう立場であっことは後世誰でも想像できます。
伊東祐親は最終的に頼朝に許されますが、過去の自らの行為を恥と知って自害しています。
ということで政子は頼朝の正妻と北条家の地位(のちの執権家)への布石とが転がり込んできたわけで、これこそが千載一遇のチャンスだったのでしょう。
まぁ伊東家にとっても北条家にとっても当時の世流では「源氏の流人」との関わりはタブーであり超ハイリスクな選択だったはずでその「迷惑」というものは多大にあったことでしょう。
しかしつまるところは時流を見る目とタイミングを生かせるかどうかだったのでしょう。
頼朝が政子に頭が上がらず政子が頼朝尻の下に敷いて居たという事実は否めません。それにしても頼朝の側室やその他女好きは有名でそれらへ対する政子の嫉妬や嫌がらせの数々は常軌を逸している感がありますが、その点については各位お調べいただくとして何よりも彼女の「偉大性」を表しているのは「尼将軍」(鎌倉殿)としてのデビューです。
頼朝死後承久三年(1221)、幕府からの権勢奪取回復を望む後鳥羽上皇との関係悪化(承久の乱)の際、御家人に対する大演説が後世の語り草になっていますね。
鎌倉に集まった御家人たちを前でのスピーチです。
私は関ヶ原前夜の小山評定の家康の演説はここをヒントにしているような気がします。
「(各々の本領の安堵をした頼朝の)御恩は山よりも高く、海よりも深い。(この誤解の元は逆臣の讒言であって正義はこちらにある)ただちにたちあがって討ち向かえ・・・ただし、後鳥羽院に参じたい者はそのようにしてよい」。
だいたい上記のような内容だったのですが、太字「山と海」の譬えは昔からよく聞き馴染んだ表現です。まず「御恩」というものを振りかざして今一度それを摺り込み直し、最後の締めは「でも、あちらについたとしても構いませんよ」「皆さんの自由にどうぞ」と。武士はその手の「誘導」には滅法弱いのです。
懐の深さ、人間のデカさそこに「男気」を感じたのでしょう。
この演説によって御家人19万騎を集めて大挙して上洛、上皇勢を一蹴します。蛇足ですが騎馬一騎といえば当時一族郎党を率いての戦いですので徒歩組含めての数は相当の数に膨れ上がったことでしょう。
「鎌倉殿マッサン」の女としての性格はさるものながら家人・家臣団の掌握術は特筆ものでした。
ちなみに関ヶ原前の家康の演説は「頼朝」の箇所を「豊臣」に変えただけでしょう。
目前の敵の前に「大義」の旗を振り、説得しつつ、最後は「ご自身の好きにせよ」。コレですね。そして家康はその豊臣家をも滅ぼしてからこの世を去ったわけです。
画像は伊豆堀越御殿跡の目の前にある政子の産湯井戸。
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