兄なのに弟の命令 京を追われた?  堀越公方 政知

いいこと、めでたいことを表す語に「嘉」という字があります。

法名に「か」という音を入れたい時やその字が使われた人名を記す際少々難儀します。

 

ワープロで「か」と打てば、とめどもなくそう読まれる語が連なって出て来て埒があきません。

よって私はそんな時、「かきつ」―「嘉吉」と一旦打ってから「吉」を削除するというやり方で「嘉」を入力しています。

 

「嘉吉」とは年号ですね。年号はワープロでは大抵がヒットして出てきます。

よってこの場合「かえい」―「嘉永」でもOKなのでした。

 

嘉吉といえば「嘉吉の乱」。

掛川市高瀬の八相寺さんの「三の姫様」の墓前には時々お参りさせていただいていることは何度か記していますが、三の姫様の父親は鎌倉公方足利持氏で彼の三女です。

 

足利持氏は足利六代将軍(くじ将軍)と対立を深めて結果的に関東を戦乱状態に陥れてしまいました(永享の乱・結城合戦)。

その戦乱は持氏一統の討伐という成果により関東は平定されますが、その後の当面の敵が無くなった義教に芽生えた強権政治への反発により、乱世の風潮の始まりなのか、義教は家臣の赤松満祐による前代未聞の「将軍殺し」によって消え去ります。

本当は義教が赤松を殺そうとして逆に殺されたといいますね。

諸大名も列席した宴での騙し討ちとはいえ、大いなる乱世を予想されるこの大事件から世は応仁の乱へと向かっていくわけです。

 

さて、先妻の子を廃し後妻に入った子を引き立てて家の中(堀越公方足利家)が無茶苦茶になった茶々丸の例を記しました。

そういった話は後世、近代に入ってもよく見聞きしますが、一見継承順位の上位であるはずと思われる人が弟たちに先を越されてしまうという例もあります。母親の出自によるものです。

 

戦国大名に於いても正室が産んだ子なのか側室かでは事情が違いましたね。

たとえ側室の産んだ子が先に生れたとしても正室が後から産んだ子が長男とよばれて家督継承順位が上位になるという逆転現象が起こる例です。

 

足利家では正室を出すべき家は日野家という殆ど暗黙のしきたりがありました。義政の日野富子が有名ですね。将軍へ日野家から嫁いだ姫が正室となります。そしてその第一子が将軍承継の本命となります。よって日野家としては自らの家の継承する男子は勿論、将軍家に嫁入りさせるために女子の誕生は必須だったのでした。応仁の乱に突入する遠因ともなっています。

ちなみに当流御開祖の親鸞さんの出自は日野家と言われていますね。

 

堀越公方茶々丸の父親は義教の次男と呼ばれていますが、母親は「兄」の義政~永享八年(1436)生~の母が日野家からの人に対して幕府奉公衆の斎藤氏の娘「少弁殿」で家柄の違いから側室扱いとなり、永享七年(1435)生まれと1歳ですが年上。

 

将軍職を継承した年下の「兄」義政は、「年上の弟」政知を鎌倉に向かわせたのでした。きっと義政はまったりと趣味に生きる(東山文化)ために政(まつりごと)のセンス長けて、目の上のたんこぶになりつつあった政知を関東に下向させたのではないでしょうか。

武家の風潮としては正室か側室かの格差は絶対的であり、その点での側室の子供の身の振り方は「沈黙」と「従順」であったことは言うまでもありませんでした。

 

画像は鎌倉に入れなかった政知の伊豆の堀越の御所伝承地(場所はここ)。こちらの史跡には発掘調査が都合20回に及んでいるとのことで、園池の遺構や鎌倉期から室町期の遺物が発掘されています。調査により鎌倉北条氏の屋敷群の上に堀越御所が作られていたようです。

掲示板によれば、この広大な敷地にゆくゆく復元整備を行っていくと、なほなほ羨ましいお話です。まさに韮山は宝の宝庫です。