「茶々」というと語呂もイイし呼びやすい名ですね。
お茶所の当地からすれば、まさに「ど真ん中」ですが、現在キラキラネーム全盛の中、この名を子供に名のらせようという親は居ないようです。というか聞いた事が無いですね。
ちなみに昨年誕生の男の子の名、最多が「蓮」だったそうです。この字は人気があって2年ぶりの返り咲き1位、4回目とのこと。私らが見れば「蓮(れん)くん」の蓮とは仏が座したり載りものにする「蓮台」のイメージで、何より当流8代目の蓮如さんをも思い起こす「ありがたき字」です。
世の父母様の意向は知り得ませんが、微笑ましく受け止めさせていただいております。
「茶々」、大抵それを聞けば小谷城で生まれた「浅井茶々」を思い起こさない方はいないくらいでしょう。いわゆる浅井三姉妹の長女でのちに秀吉の側室となり、秀頼の母として大坂城に君臨したあげく皮肉にも豊臣家滅亡の要因にもなった人でした。
その「茶々」は幼女特定の名ではありません。男の子であってもその名を付けられた人がいます。
「茶々丸」さんですね。彼は前者「茶々」の出自よりも格としては一段上。ただ歴史上の表舞台前面に華々しく「出演」したかどうかの違いによって知名度は少々低いだけです。
幼少時から苦労を重ねて、女ゆえ、あるいは若さゆえに足元を掬われたという点では共通点がありますね。
茶々丸は茶々より時代は遡り明応期(1491~)の人。
上述の蓮如さんが明応八年(1499)に亡くなっていますがその同時期の人。出自は足利将軍家でいわばエリート。
室町幕府、強権のくじ将軍、6代将軍足利義教の次男の政知を父に持ちます。政知の兄は7代将軍義勝です。
6代義教が還俗将軍だったように男兄弟の弟たちは寺に入って恭順の意を表明し兄の死去等の「スペア」として世をすごすことが当時の「当たり前」の道で、彼も同様でした。
しかしその次の8代将軍義政は政知を関東に下向させて鎌倉公方として着任させようとします。
ところが足利幕府の弱体化は関東に覇を及ぼせず、政知は鎌倉まで到着できませんでした。
箱根越えの手前、伊豆の堀越での滞留を余儀なくされたというワケです。
京都へも帰ることもできず、こちら伊豆に政知が留まりつづけたため堀越公方と呼ばれました。
そんな中、堀越公方足利政知の嫡子として生まれた茶々丸は、本来ならば2代目堀越公方を名のるはずでした。
継母?の円満院が産んだ子の弟、義澄は将軍後継候補として京都天龍寺に入り(11代将軍)、そのまた弟の潤童子が堀越公方2代目となるレールが敷かれてしまったようです。
確証は無いようですが、父政知の意向であるといいますね。
理由は「素行不良」系だそうですが、しかしそういうちょっと首を傾げるような「順序反転」の理由というものは大抵は後付けが多くて、アテにならないものです。
私は自分の子供を優遇したいという母心というものがそれに絡んでいることは間違いないと思っています。
こういう順番無視の「無理由」はまずは紛争が起こるというのもこれも世の習い。
政知は茶々丸を正式に元服させず、土牢に押しこめて廃嫡したとのこと。よって茶々丸の名は何時まで経っても正式な名乗りがなくて幼名の茶々丸のままなのでした。
「素行不良」という実情があったとしても実の長男を廃嫡するには確固とした理由が無くては周囲も納得しませんでしょう。
まぁ後世、武田信玄も徳川家康も自分の為、家の為に長男を廃嫡して殺していますから、政知の行ったことにそうは驚きはありませんが。
私が思うに茶々丸の災難がもしや新しいお母さんが来たことから始まっていたとしたら少々気の毒だと思ったのでした。
そうだとしたら、実の母親との別離も同時にあったはずで、悲しみと不遇の身と怒りが同時に湧き起こって、その素行不良というものに拍車がかかったとしても理解ができるところです。
世に言う茶々丸暴挙謀反説は一概にそう信ずることはできないと思います。
茶々丸は父、政知の死後の延徳三年(1491)継母円満院からのイジメがエスカレートする傾向に激昂して、牢番を殺して脱獄、円満院と次男、堀越公方2代目就任間際の潤童子もろとも殺して鎌倉公方2代目を継承します。
脱獄から継承まで一人で為せる仕業ではありませんので有力なバックが居たことは大いに推測できるところですが、この事件は地方の田舎公方の内輪もめに留まらず、「一人の人間の人生」に大いなるチャンスを与えてしまいました。
「国盗り」はその国の内紛に乗じることは常套手段ですが、伊豆の国の内乱に目を付けたのが今川家客人で独立志向の芽生えた伊勢宗瑞(北条早雲)でした。
大義名分は「現将軍職の母殺し」茶々丸の討伐です。
伊豆堀越とは比較的近隣の興国寺城に居た宗瑞はその混乱に乗じて伊豆へ侵攻します。その計略は的確で堀越公方軍は一掃されてしまいます。
この地を基盤に小田原後北条の覇権へと繋がったのでした。
正確な年齢は伝わりませんが茶々丸は願成就院で自刃したともその後も南伊豆にかけて転戦して挙句に自刃したとも伝わっています。
画像は願成就院の茶々丸の墓。
「延徳四年四月十日 成就院九成居士 足利茶々丸之墓」
この寺で一番にお目にかかりたかったのでした。
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