27日は二男の回収に小田原まで。
父親の葬儀にも来てくださった方々への挨拶や母方菩提寺、世話になったおばさんの墓参りも一緒に済ますことができました。
天候は28日夜から29日にかけて「悪化する」予報でしたのであまり気が進まなかったのですがこの日は一日中良いお天気でした。
帰省渋滞とやらも静岡県特別優遇?の新東名高速のおかげでいつもより車両は多いもののいたってスムーズ。
下り線で車が詰まるのはまず三ヶ日を過ぎてからです。それより西への通行はキツイものがありましょう。
今朝8時過ぎの出発時は3℃でしたが、無風に付き気温は急上昇、10℃には楽勝で上ったでしょう。小田原での昼食はいつもの鰻屋さんでしたが、空調効きすぎでシャツ1枚になりたい衝動に駆られたくらいです。車中はポカポカで居眠りが出るところでした。
見覚えのある景色に再会してはクリアな視界と空気の美味さに深呼吸。生きかえったような新鮮な気分になりました。
根っこが生えるが如くじっとして相良に居ることばかりがプラスとは限りませんね。
帰りには南足柄の大雄山に二人で住まう、叔母たちの家に立ち寄りました。久し振りに会った母親の姉にあたる94歳の叔母さんはしっかりとした厳しいキレ者のイメージ。
既に数年前に小田原高校と併合して無くなってしまった小田原城内高校(女子校)の卒業生です。
その後、京都に出て東本願寺前で御門徒上山参拝用の宿泊所を上のお姉さんと営業していました。
東山東福寺近隣に豪邸?を所有していましたが、そちらを引き払ってこちらに隠居し始めたのが5~6年前。
私としては京都の拠点としてすべく勝手に期待をしていたのでその転居はかなりガッカリしたものでした。
二男に挨拶をさせての帰り際、叔母に「See you again!!」と投げかけられて彼は相当どぎまぎしていました。
叔母さんは若き頃、世界中を旅した女。
すべての事象をプラス思考で捉え、まったく「竹を割ったような性格」とはこのこと。半世紀に渡って当家のスポンサーとなった人でもあります。
どこかでも記しましたがその母親(私からは祖母)のスズ子の出身は小田原の美濃屋吉兵衛商店。
近江浅井の流れとは私が小さい頃から聞かされて育ちました。
今でもつまらないことを言ったら蹴散らされそうな気がするほどですが、さすがにこの数年のブランクをおいての再会には驚きがありました。皺の数ですね。
当然ですが寄る年波にはかなわず、以前の美貌は面影を残すものの、「普通のお婆さん」の顔に変わっていました。
ということは私も変化しているのですね。周りの人たちがこれだけ歳をとっているのだから自分も相当でしょう。
人生なんて「あっという間」をしみじみと感じました。
よろしいですか!今一度言います。
「あっという間」です。30代ころまでは先達がそれと同じことを私の耳に言い聞かせていましたが「どこ吹く風」の躰でありました。
気が付かないのですね、若いときと思うように物事が進んでいる人は。
標記は殆ど「痴呆」とは縁遠い叔母の私への褒め言葉というか相当の突っ込みです。「いい男だねぇ」の次の言葉が思わずニヤリとしてしまいました。
「長谷川一夫が来たかと思ったよ」です。
私ですら「良く知らない」戦中戦後の「スタア」、二男にはコレも意味不明の文言だったでしょう。
画像①は行きがけ由比から②③は通称「峠」を箱根新道に分岐してスグから見た芦ノ湖駒ヶ岳。
通称「もとばこ」、元箱根の対岸、箱根神社の鳥居が見えます。
温暖な地域ですが、さすがにここは冬季の悪天候時は要注意の場所。20代の頃道路をはみ出して雪の吹き溜まりに突っ込んだ思い出があります。ただ運がイイだけでした。
小田原国1を通過する際、小学校1年の時、御幸が浜の交差点で車に跳ねられたこともついでに思い出しますし、早川橋の手前で廃車になるほどのクラッシュをしたことも。
④⑤⑥は帰りの富士川SAより。夕刻ですが駿河湾までも渡せました。製紙会社の煙突から煙が出ています。年末の日曜日にもかかわらず稼働しているのですね。
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