よりによって宮中女官  鈴虫松虫 住蓮山安楽寺

落語の大元が僧侶の説教から始まったなどと聞いた事がありますが、それでは歌謡曲の元をたどると、仏教経典に節を付けたもの、特に善導さんの記した「往生礼讃偈」から発展させた「六時礼讃偈」だったという説もあります。

 

都心の葬祭場専門の派遣僧侶は各宗派に通じているオールラウンドプレーヤーでないと仕事の依頼が少ないといいますが、真宗系の節のあるものは特に苦手と聞きます。

真宗一番の経典「正信偈」(草四句目下)などちょいと慣れが必要ですからね。しかし私が思うには、葬儀で正信偈の拝読がありますが、そちらに限っては「棒読み」ですから、節いらず。

ただし念仏、回向も句淘(くゆり)というのがくっついて音の持続上げ下げの指定がありますからやっつけの棒読みは少々難しいかも知れません。

 

よく「わかりゃしねえだろ」などという声を聞きますが、ちゃきちゃきの御門徒さんは必ず中にいるもので「今日は節が違ったね」などという御指摘もいただいたりします。

皆さん耳も肥えていて手抜きなどすれば一発で判定されましょう。

真宗の葬儀に来る坊さんで剃髪の人はそういないでしょうし、東京辺りで葬儀社に「おまかせ」して、坊さんらしい坊さんが来られたらむしろ「バイト」かも知れませんね。

 

経典に節がある謡(うたい)様の声明は天台声明にも似て荘厳な雰囲気、かつ「歌詞カード」の如くの経本のひとつもあればその内容はごくわかりやすいものです。

私も礼讃偈の拝読は嫌いではありませんので拙寺三回忌法要の冒頭には「至心懺悔」、報恩講逮夜には「日没無常偈」「初夜無常偈」、初盆や盂蘭盆会法要には「日中無常偈」等々と適宜入れています。

最近では「永観堂多宝塔」、日没のところで記していました。

 

爆発的に流行させたのは法然さんの弟子でいわば親鸞さんの同僚でもある住蓮と安楽です。のちに親鸞さんは正信偈に節を付けて広めていますのでそれらの流れを受け継いでいるとも言われています。

 

節の付いた経典(偈)を歌うがごとく発声する礼讃偈は庶民全体に人気を博したのは勿論、今でいうアイドルに大挙して集まる女子たちの如く、老若男女がその法要に参加するために法然さんや彼ら独自の日々の勤行がされる鹿ケ谷草庵へ集まったとのこと。

 

この流行は私の過大な表現ではありません。

あの徒然草に(227段)記されているということは一世を風靡していたことに違いありません

 

「六時礼讃は 法然上人の弟子 安楽といひける僧 経文を集めて作りて 勤めにしけり ~ 節博士(ふしはかせ)を定めて、声明になせり 一念の念仏の最初なり ~ 」

 

一念とは「一度の南無阿弥陀仏」・・・・親鸞聖人の思想の初めということでしょうか。従来の声明は「行」の意味合いも強く1日「一万遍の念仏」が当然の如くあげられた時期がありました。

ちなみに親鸞さん以降はいよいよ「行」より「信」重視の思想に変遷していきます。

 

法然さんの「浄土の思想」に腹立たしい思いを積もらせていたのは南都北嶺(興福寺・延暦寺)でした。

幾年も辛い修行と功徳を積んで仏法を極めて修した、ごく僅かの人たちのみのためにある「浄土」を、たった一言の声明で多くの人々が「たすかる」「浄土の教え」を広げたのですが、これまで重ねてきた悪業煩悩の一切をクリアできて、何より救われ(浄土へ)てしまうという思想は当時の彼ら(南北・・)にとって絶対に受け入れがたいモノがあったでしょう。

 

最大権威者、朝廷の後鳥羽上皇に対して南北の宗教権威者たちは専修念仏停止(ちょうじ)を訴えますが、何とか法然さんも対応に励んで上皇もその宗教界の対立に対しての裁量は一旦は保留にしかけていました。

 

昨日は新田義貞が宮中にいた勾当内侍を後醍醐天皇にあてがわれて破滅の道を辿ったというエピソードに触れましたがここでも宮中の女御で人生を狂わされたという例がありました。

いわゆる「承元の法難」「建永の法難」ですね。

 

真宗的には

①親鸞聖人と法然上人の今生の別れ

②親鸞聖人の苦難の始まり

③親鸞聖人による北陸・関東への布教の始まり

という形で伝え聞くところですが、そもそものそのきっかけが後鳥羽上皇の逆鱗に触れてしまったことからだったのです。

 

安楽と住蓮が催す大流行りの「六時礼讃」に参加していた女子の中に鈴虫と松虫という宮廷女官がいて、彼女らが後鳥羽上皇が熊野詣に出かけた隙に安楽と住蓮を御所に招き入れてそちらでも礼讃偈を披露させたそうです。

彼女らの望みは「出家して仏門に入る」とのことで、よせばいいのに二人は彼女らの頭をつるつるに剃髪してしまいます(得度式の挙行)。

 

法勝寺を「天皇の氏寺」と称した天台座主慈円の「愚管抄」の中には、そのうえに「御所にお泊り」までしてしまったと記されているそうです。

当然に熊野から帰った上皇はキレたというお話ですね。何より体裁は悪いし顔に泥を塗られたと。

 

ぶっちゃけて言えば囲っていた若い娘たちが自分に愛想が尽きて自分が他所へ出張している間に自宅に若い男を招き入れたうえに出家して彼らの寺に入るというところでしょうか。

安楽と住蓮の二人が斬首、師匠の法然さんに親鸞聖人含めその弟子らが流罪となる大事件と発展してしまいました。

 

今考えればこの件がなかったとしたらやはり浄土真宗という教えも無かったかもしれません。そうだったら親鸞さんは法然さんの一人の弟子として終わったということですね。

「禍福は糾える縄の如し」ともいいますし、人生はどうなるかわかりません。

 

画像は拝観謝絶の住蓮山安楽寺(場所はここ)。