坂本の慈眼堂の墓碑群の中に新田義貞の名がありました。
画像①です。
一瞬「突飛だな」と感じましたが考えてみれば、なるほどとも思えます。何と言っても「国王の氏寺」法勝寺縁の寺でした。
明治期になって「国賊」とも罵られた足利尊氏に対立し敗死した彼の功績を讃えんがためにあるとすれば納得するところです。
小田原界隈の義貞に関わる墓、側室、妙定尼のもの(義貞の墓は小田原山王)を以前記しましたが、標記「勾当内侍」(こうとうないし)とは義貞の複数あった妻の一人です。
藤原北家流、世尊寺経尹?の娘(行房の妹、また諸説あり)といわれ宮中にあって天皇と外部の取次ぎを主とする役所のトップにあったと言われていますので、義貞が楠正成らと足利尊氏を討伐し京都から追い払った戦功に後醍醐天皇が提供した恩賞だったとも。
義貞は彼女との別れを惜しんで京都に居つづけ、九州にまで追い込んだ尊氏の息の根を止めるに至らなかったといいます。
チャンスを逸失した義貞は後に尊氏の反攻にあって敗死し、建武の新政も潰えたわけですが、太平記によればそれらの原因が彼女であって、的確にチャンスを生かせなかった義貞の未練がましさにあると記していますね。
坂東の田舎侍が京都に出て御所の高貴気品漂う女子と引き合わせられてのぼせ上るなどはまぁ義貞さんの気持ちとしてはわかります。
義貞は後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を連れて(天皇は和睦)殆ど敗走ともいえる北陸への逃避行の末、勾当内侍兄の行房は金ヶ崎で自害、義貞は藤島で討死しています。敗者に対しての歴史書は痛烈でその死を犬死=無駄死と形容しているようですね。
そんな中、勾当内侍の身の振り方も諸説あるようですが、この地にある彼女の墓の掲示板(場所はこちら)には、堅田に滞留して、義貞の死を知ったのち湖に身を投げたと記してあります。
「堅田の源兵衛」の光徳寺ともスグ近く、義貞の供養塔のある慈眼堂からもそう遠くは無い場所です。
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