祟り(たたり)無し  遺跡は大切に後世に遺してね

先日新聞紙上を眺めていると最近では滅多に耳目にしなくなった言葉が目に飛び込んできました。

「崇り」(たたり)です。

私ども真宗ではその語彙についてはまったく無いに等しいと思います。「崇敬-すうけい」という語はありますがね。

敢えて言えば「崇り」とは祟る者も祟られる者も「私の心」「私次第」というところでしょうか。

 

紙上には三井系の会社による大手町の再開発計画の概要が掲載され、その語が妙に目を惹いたというわけですね。

2棟のオフィスビルを建設する(「大手町1丁目2地区計画」)とのこと(41階と30階建て)ですが、これまで「何かある」と言い出されては「やはり手を付けるのはやめた」という歴史を抱えた平将門の首塚の件です。

遠州掛川にも彼の首塚はありますが、こちら大手町の方ですね。

 

やはり控えているのは人間の勝手な欲望でしょう。

容積率も高く、地価も掛川あたりと比べて雲泥の差でしょうね。それでいてどちらも「お墓」として変わりはありません。

この一画を墓(遺跡)として残すという「不都合」はどう考えても有り得ないと考える人はそうなのでしょうね。

 

「崇りがある」の概念はその事実伝承が世間に周知されているかどうかで決まります。何よりこちらの墓域には尾ひれが付いていますからね(→平将門の首塚)。

開発工事中に発見された墓石遺構は現場判断で闇に葬られることもあることを記したことがありますが、他者がそのことを知らなければ「無かったこと」であり、そうなれば「崇り」そのものも無いのです。

 

このことは「呪い」「呪詛」の類と同様で、たとえば「憎いあの人」を呪い殺したいと思って、俗世に言う藁人形と釘を用意してその各作法で執り行っても大抵は徒労に終わります。

大抵と記したのは偶然そうなる場合もあるかもしれないということです。

当たり前ですね。彼人を人形(ひとかた)の藁にたとえて釘を打ち込んでその人がどうこうなるワケがありません。

 

しかしそれに唯一効果をもたらす方法があると言います。

呪いたい相手にあなたは人に呪われていて、上記の如くの呪術が日々行われているということをそれとなく気付かせることだそうです。

 

自分は他者に呪われ、その妖術によって健康を害している、あるいは将来殺されるという「間近な死」のイメージを持たせて、精神的に痛ませ追い込んで、実際に誰もが持っている何かしらの体調不調の不快を増幅させ、それがあたかも呪術の結果であると誤解させるというものです。「病は気から」と言いますが、そこのところを軽妙に撞くというのがこの技術なのでした。

ちなみに日本史上「呪詛」は歴とした大罪です。殆ど相手を逮捕する場合等のでっち上げにその罪状を利用しましたが、ある程度相手にその言を臭わせることに効果がありますので少々リスキーです。強く報せればバレるでしょうしね。

ただし仏罰はあるというのが私の想い。それがあるから面白いのですよ。 

 

私も経験しましたが特に従業員の多い企業でのお話です。

これまで行ってきた儀礼的なものを予算の問題で削減しようという案が出たりすると・・・、たとえば正月飾りを小振りのものにしようとか、社内の社の祭礼をやめよう、町内の祭りに社内から出す人を縮小しようなど・・・必ず「何かあったら誰が責任を取る」などと反論する人が出て、その言葉が出るや皆絶句し、しばらくしてから「例年通りでいいんじゃね?」ということで収まったものです。

皆が知らなきゃ縮小しようが、なくしてしまおうがどうでもいいのです。

 

今回の件はみんなが敬い昔からある将門さんの首塚でもあることですしあの敷地への造作の手は入らないことで決まったそうです。古い遺跡は壊さないで後世に遺していって欲しいものです。移転などという詭弁は使わずに。

話変わって沖縄では「移転」ありき。まさしく沖縄の人からすればそれこそ「詭弁」(安全)なのでしょうね。