蓮如さんと山科本願寺にご縁のあった金森(かねがもり)の川那辺弥七=善従(道西)さんが開いた道場は通称「金森御坊」でお馴染みです。
正式には「善立寺(ぜんりゅうじ)」。
善従(道西)さんは蓮如さんの御文(手紙)を最初にもらった人と言われていますが、蓮如さんもこの地に3年ほどいらしたそうです。そのような縁もあって以後近江野洲郡、栗太郡の本願寺教団の拠点となりました。
懸所(かけしょ)ともよばれたお寺ですね(場所はここ)。
古くから大谷派の「別格」として親しまれたお寺で、参拝者も多く集まる場所ですが何分、周辺は住宅地となって車を停める駐車場が見当たらず、路地(画像⑪)も狭いのです。その点は難儀しました。
きっと参拝に訪れるバス等は別の場所に駐車場が用意されているのでしょう。
参拝は善立寺さんの川那辺住職にご案内いただけました。
頂戴した御名刺の「川那辺姓」を確認し、改めて川那辺弥七からの血脈を延々とこの地(一所)でつないでいる懸命さをうかがい知ることができました。少しだけでもそのようなご縁にあずからせていただいて有難い思いでした。
また現在「苦菜会」と呼ばれる蓮如上人の遺徳を偲んで催される「500年!!」継承されている法要があるとのこと(春です)。
これは上人が山科本願寺を建立、棟上げの際に、金森衆や野洲の小南衆が山科へ献上にあがったという故事に由来しているそうで、「苦菜」とはキク科の植物。小南衆が冬季に田の畦道で摘み取ったものを金森衆が“御斎(おとき)”として出す習いです。
石山本願寺の対信長戦で金森衆は籠城戦となりますが佐久間信盛の手で陥落させられています(元亀二年九月)。
石山の合戦が元亀元年の同月から始まっていますが一年という早期に降伏しています。立地的にも不利な平地で籠城に適した場所ではありませんでした。
以降この地を統治した佐久間に帰順を表しながら本願寺に兵糧等を密かに送っていたそうです。
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