仏教の教えの中に煩悩を「毒」として捉え、その代表的な三つの毒素を「貪欲」と「瞋恚」、そして「愚痴」であると。
「瞋恚」とは「しんい」、または「しんに」と言い、簡単に記せば「怒り」の心ですね。要は「自我に反することに対する感情の起伏とコントロール」です。
ちなみに怒ったあとというものの次に本当にやってくる感情といえば悔恨ですね。「ああ怒るんじゃなかった」と。まぁそんな愚かな繰り返しをしていることはとうに気が付いているはずなのですがやはり自分の思い通りにいかないとイラついて時には八つ当たりしたりして顰蹙をかっていました。
私の場合は世相や政治そして次男へ怒りをぶつけるくらい、・・といっても前二者はまったく無意味な憤怒ですが・・、で最近はあまりバカバカしい怒りはおこらなくなりました。大抵はデカイ声を出すのは次男の「動きの悪さ」への「指導」ですし、せいぜい我が身に対しての怒りくらいのもので、他人様に激高することは無くなりましたね。少しはオトナになったせいかも知れません。
東急ハンズなど、客商売をしていた頃には時として無茶な怒られ方をしたものですがそれ以前からも人に「しかられる」ことは慣れっこです。よって会社などではクレーム対応大好き人間になっていました。
子供の頃はどの時代もクラスで先生に怒られっぱなしで・・・というか教師は「怒ったフリ」だったのでしょうが・・・どんな怒りも「どこ吹く風」になってしまったのはそのせいですね。
「怒り」はある意味「滑稽」ですよ。
よしもと新喜劇を見ていればその「怒り」で半分はお笑いを取っていることがわかります。
他者の「怒り」には興味が湧いて注意をひきますし、その根源がそれぞれの価値意識というものでしょうか、考えと違ったりすると可笑しささえ感ずるものです。
さて、家庭ごみのゴミだしルールについては各所でいろいろなトラブルを発生させていることを耳にします。
ゴミ出しのローカル「戒律」も色々あって、それぞれ地域に転入してきた新人さんたちなどが最初に頭を悩ませる点ですね、そこのところは。
ゴミ集積所を「どこにするか」から、カラス等害獣の散乱よけ、後片付け等の現場ルールなどですが、ゴミを出す人たちで決めたオリジナルルールもあります。
ゴミ置き場を設置できる空地等を提供していただける場合はゴミそのものの管理は便利にはなりますがボックス等そのものの清掃等管理は案外大変だと思います。
私ども近隣のゴミ置き場は「道路上」が殆どです。
よって「間違い出し」の場合はそのままずっと名前を記したゴミ袋が放置状態になって近隣の皆さんに対し恥ずかしい思いをすることになります。また記名なしは収集担当は「放置」としますので最近ではそこに「ある」とすれば「故意」以外考えられなくなってしまいましたね。
昨日近隣の某市内を通過時にその手のゴミ用のボックスに貼りつけられた看板に目が留まって思わず苦笑い。
ゴミ出しに対しての捨て台詞らしい怒りの文言があまりにもインパクトがあり、また私の笑いのツボにはまってしまいましたので画像をアップしました。
よく見ると見せしめの如く未回収の袋が晒されていました。
今、この最後の言葉・・・覚悟して・・・は我が家の常套句として吐き散らかして「笑って」います。
ちなみに「覚悟」とは仏語で「悟りを開くこと」ですね。
お怒りの方は坊さん?仏?の如くです。
②画像は我が家近くの道路上。
グーグルのストリートビューから。
グーグルさんが今年の8月のある日の3時頃(お日様の位置から)にこんなド田舎の細い道に入り込んできたのでした。
恐れいりました。無理にここだけ入ってきたようにも感じますが、おかげで当家前の立体的感覚を紹介できました。
覆いのネットを被せるようにしている集積場が写っています。当家で出している場所は門前にありますがネットすらありません。時々カラスや野良ネコにやられていますが・・・
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