中央教育審議会総会で学習指導要領の全面改訂をするそうですが、小学5年生から英語を教科にすること、高校で日本史を必修化することなどが検討課題として諮問されたとのこと。
英語の2年低年齢化は時流だと思いますし、日本史=日本の歴史を見て、その人の生き方を学ぶことに「特に意義あり」と思いつつ、殆どが世界史や地理等を選択する風潮に不思議を感じていましたのでそのように(日本史必修)なれば、方向性としてはよろしきことだと思います。
先日諏訪原城で一言二言言葉を交わした島田市の学芸員の助手の方は奈良の大学で史学を専攻したと仰っていました。
私のこの世界への興味は小学生時代からありましたね。
母方の叔父さんが千葉市の教育委員会で発掘調査に携わっていたこともあって、その道の楽しさと情報を得ていましたが、何分私の大学入試の時代はそう簡単に自分の好きな方向へは進めさせてくれませんでした。
「たまたま入った(合格できた)大学」で方向が決まりました。決まったといっても今となってはただ在学していただけのような気がしないまでもありませんが・・・。
史学系はどこも人気でしたし、受験する大学は自分が何となく気に入った学校のみでした。結局合格したのは「法学部」でしたね。
ちなみにその頃は頭の中に「仏教学」の「ぶ」の字もありませんでしたし、未練があったとしたら「史学」の方でしたね。
ということで「史学科で考古学を」などと自己紹介なんどされたりすればかつて自分が行くべき道として考えたこともあった方向でもあり、「ああ楽しそうだな」と思いながら羨ましくも感じてしまうものです。
そんな考古学(といっても現在の私にとってはただの興味の範囲以外の何物でもない殆ど何も知らない世界なのですが)の「聖地」である奈良方向に立ち寄ると、やはり素人の私にとっても身震いがおこるほどわくわくしてしまいます。
大抵は今井町や信貴山など目標を持って、そちらへ向かいますが周辺は何しろあっちこっちと行ってみたいところばかりで本当に心をおさめるのに苦労が要る場所です。
昨晩BS放送で「キトラ古墳」についての番組がありました。
キトラ古墳の埋葬者が誰だったかを探るのがその主題だったようですが、キトラや高松塚、各天皇陵と藤原京との位置関係について語っていたところが印象に残りました。
藤原京(場所はここ)は壬申の乱(672)で勝った天智天皇の弟の大海人皇子(天武天皇)が、天智天皇と弘文天皇の都であった近江大津宮から遷都した天武天皇とその夫人の持統天皇の都の飛鳥浄御原宮(673~696)の次に遷都された都でした。
藤原京といえばかの有名な大和三山(天香久山・ 畝傍山・ 耳成山)に囲まれた都です。その番組の中で都の真南に連なる一連の墳墓であるので皇室系のものであるという説がありましたが、この墓たちの並びは「北斗七星」の並びになっているという件がありました。
そのお話は若干こじつけの如くにも感じないわけでもありませんでしたが、その天体と方位に関して当時は「最もこだわるべき事」だったわけで、はっとするような面白いお話でした。
キトラの玄室の天井にはその星たちや天体が大陸系のお馴染み、青龍・白虎に朱雀と十二支像と一緒に描かれていました。
高校の地学で習いましたが、北斗七星の柄杓の先(×5)が指しているのが北極星ですね。
ご存知のように夜空の天体で唯一動ないものは北極星。
いわば北極星を中心にしてすべてが回っているという図になります。
そういう天体の図に準えて、天皇を北極星として崇めるというのが当時から方位を気にする流れ。
藤原京は「易経」という古代中国の占書の中の
「聖人南面して天下を聴き、明にむかいて治む」
という一文を参考にこれを建てられたといいます。
要は天皇は常に北にいて、南向き見下ろすという位置関係が重要だったわけですね。
まぁ天皇でなくとも、南側に開いたちょっとした高台の土地に家があれば絶好の立地ですね。
もっとも藤原京の場合、高低差として北方向が高地になかったので排水等逆流するなどの物理的瑕疵があったそうです。
そんな理由が710の平城京への遷都となったといいます。
京都の御所も北寄りにありますね。
北東方向の鬼門に比叡山、裏鬼門(南西)に石清水八幡宮と方角に気を使った配置になっていました。
歴史の中で私の一番嫌いな時代は「明治」でした。その元号こそ、「易経」の「明にむかいて治む」からでした。
それも当時は数種の候補からクジで決めたそうです・・・。
最近の我が国の「中国嫌い」の風潮は特筆モノですが、「元号」というとそっちから引っ張ってくるというのは伝統のようです。日本史の勉強を面倒くさくしてしまう元号はこれから「やめちまって西暦一本にすれば・・」などといったら怒られるでしょうね。
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