蓮如さんと堅田門徒衆を困らせた園城寺(三井寺)再訪

近江大津界隈に時を見てはフラフラと出没している私ですが、バスから降りた観光客が大挙して溢れて、私の撮影のタイミングを喪失させ、尚「シャッター押してください」などとノー天気な声を掛けらる著名な観光地、園城寺(三井寺)を時間潰しに歩きました。

昨年も門前の駐車場に停めたまでは良かったのですが、結局あの時は「奥の墓道」同行で、彼もこの手の雰囲気を嫌ったため、サラッと見て帰りました。 

 

今回は文句をつける輩も不在のため、琵琶湖の景色でも楽しむかという気持ちで境内へ。

前回は駐車場に停めれば係員が飛んできて、駐車料金を徴収に来ることは分かっていましたので、今回はまず「大津市歴史博物館」を目標にしました(場所はここ)。

 

博物館では「三井寺 仏像の美」という企画展がありましたのでそちらを拝観してから三井寺へというコースです。

博物館の駐車場は無料ですからね。

 

この寺の名は二つあって紛らわしいのですが、双方とも著名、園城寺=三井寺です。「荘園城邑」という私的所有地の意と天智、天武、持統天皇の産湯として使われたといわれる井戸「御井」(みい)の存在から「三井」となったといいます。

 

天皇の名を見て寺の古さ、歴史の深さが推測できるというものですが、こちらのお寺は天台宗です。厳密に言えば「天台寺門宗」といいいますので、比叡山延暦寺とは別系統です。

元々は近隣であって天台座主までやった円珍が開祖となります。円珍の流れは円珍死後に円仁~慈覚大師の一派との対立が深まって三井寺に降りたという歴史があります。

それ以来、比叡山と三井寺は犬猿の仲となって、比叡山隆盛の頃、その僧兵にこの寺は焼き払われているくらいです。

 

同様に比叡山から追い回されていた蓮如さんがこのお寺に親鸞さんの木像(御真影)を預けたという経緯があったわけです。

その後にその返却を巡ってあの堅田の源兵衛の悲哀があったのでした。

 

寺の山号の「長等山(ながらさん)」は弘文天皇の項で記したようにこの山の名称ですが三井寺寺領をもそう呼びました。

 

私の物見遊山、適当にアップ。重要文化財の建築物のオンパレード、荘厳さは間違いないところです。

①は家康が移築させた仁王門。②が通称「三井の晩鐘」。

④⑤毛利輝元が寄進したといわれる一切経蔵。⑤が毘沙門堂で⑥の三重塔は秀吉が伏見城に持ってきたものを家康がこちらに。鎌倉~室町初のものといいます。

⑧は寺の一番高い場所から。

⑨が博物館で⑩の大津商業高校グラウンドの真上になります。

琵琶湖の向こう岸まで見えましたので、この日だったら近江八幡城(毎度天候不順で湖が開けない)からの景色はさぞ良かったことでしょう。

こればっかりは行ってみなくてはわかりませんからね。

 

 

このお寺は何故か秀吉には嫌われていたようです。

源氏の崇敬を受けた寺ですので、征夷大将軍として幕府を開いた家康が支援したということは当然の如くではありますが、最初から「源家」の名のりを叶わずに捨てて「関白」というウルトラCを選択した秀吉のコンプレックスがあったのかも知れません。