石垣に感動 「残念」はテレビアンテナ施設 宇佐山城

以前記した、小牧山城では天守風資料館の裏のアンテナの画像をアップしながら何もコメントをしていませんでしたが、そちらにアンテナが無くてはならない理由こそ、そこが「城」だったというところと大いに繋がって推測ができるというものです。

 

「アンテナ」は言うまでも無く情報を送受信するための器材です。そして山の頂上にそびえる城館はその存在だけでもある意味威圧的な発信力がありますし、各種情報が集約される場所でもあったわけです。

その山に設置する理由は人里周囲、広範囲に見渡せ、街道筋からも障害物等も無く見あげることができるという共通の要求する立地条件があります。

よって城のある山とアンテナ設置の条件は同等であり後世たびたびそれらが重複するということを散見します。

 

しかし、日本の科学技術黎明期にあってお手軽な「近隣の山」としかいいようのない高所の頂点に、あったか無かったわからない「城址」を歴史的遺物として後世に残していこうなどという感覚が欠落していた時期を通したということで「致し方無いこと」かとは思います。

しかし、さすがにあの山の頂点に立って、鉄筋コンクリートのアンテナ施設の存在を目の当たりにした時は、ほとほと残念感が沸き起こります。

近江神宮社殿後方の山のテレビ塔が遠景ですね。

 

今更コンクリート施設をぶっ壊して、他所にアンテナを「設置し直せ」とは云えないのでしょうが(そうして欲しい場所が各所にありますが・・・)、本当に歴史的遺構を台無しにしているという事実があります。

史跡というものにまったくの「無配慮の時代」を経過してきたことがうかがえます。結果的に現在もそれを引き継いでいることにもなっています。

 

さて、この城は元亀元年(1570)-多門院日記-織田信長に命じられた森可成によって築かれた城です。

湖北から琵琶湖西回りのルートで上洛するに関門(山中越)と機能させるべくその使命を負った城です。

当時は湖岸からからは一目で確認できる場所になります(場所はここ)。現在は木々で覆われてしまって琵琶湖方面は見にくくなっていますが、湖北から大津方面にかけて、また湖東からの船の動きも一瞬で把握できる場所になります。

 

浅井長政・朝倉義景・六角義賢の連合軍+延暦寺僧兵3万の南下に対し坂本に討って出た信長の弟の織田信治とともに森可成は討死しています。慌てて摂津転戦の信長はこの城に戻り、得意の「和睦」で戦線を収束させています。この件で延暦寺側が増長したと感じたのか、信長の怒りはピークとなって比叡山の焼き討ちに続いたといいます。

 

登城は宇佐八幡宮を目指してください(場所はここ)。

途中、道悪になりますが普通車で本殿下のスペースまで上がれます。3台程度は停められます。車を停めたら取り敢えず一呼吸して朽ちた看板を探して読んでください。

一旦本殿に向かってブログに記した様子を確認していただいてもいいですが、本殿まで上がると登城口からは離れてしまいます。大した距離ではありませんが・・・。

 

例によってお山の中ですので独りよがりの勝手な感動的画像を羅列します。

何が感動かといえばなんと言っても石積み石垣の存存です。

安土城以前の信長の城の石垣ということで興味深いものがあります。

 

結構傾斜がキツいので風化劣化と崩落が激しく(⑱⑲、⑲は樹木の倒壊によって石垣ごと崩落している石垣の状況)、崩れ出した石垣はかなり下の方へ転がり落ちるでしょうから、注意深く、その残存状況を確認していかないと「仁和寺の法師」になりかねません。

まぁ、もっと大津市が保存するという意気込みを見せない限りあと数年でこの石垣も無くなってしまうような気がします。

 

①の鉄塔のある場所が本丸です。南西方面からの図です。

②は車を停めての図ですが、本殿へ上がる途中、本殿裏側に伸びる道への案内が③です。これはブリキの案内板が壊れていますので小さな案内板を見落とさないことが肝心です。

このルートから入れば20分程度の登攀で本丸跡まで行けます(標高336m)。

 

そろそろかなと思ったところで⑥の逆矢印が現われ、一瞬不安に陥りますが、そのまま進みます。その場で丁度左手の斜面を見上げるとあの鉄塔のベースの鉄筋コンクリートが木々の向こうに確認できますが、この段階で目を凝らせばその下方に石垣が確認できます。⑩の柵で囲まれた箇所の東側斜面一帯ということになります。

⑨はその平坦地と建物の間にあった石仏。⑬の石仏は建物(本丸址)へ向かう階段手前左にある石仏。その先に石垣が見られます。

 

湖岸からの景色、石垣に映える館はさぞ見事だったことでしょう。