史実をちょっと変えて 大友皇子=弘文天皇へ

以前、「相続」について「弟か我が子か」という問題でその死後に戦乱となったことをお知らせしました。天智天皇が被相続者、大海人皇子が天皇の弟、大友皇子が天皇の長男でした。

 

歴史では弟の方が勝ちで実子が負け。大海人皇子は天武天皇として即位し大友皇子は自刃してはてました(壬申乱)。

戦争とはいえ、今風にいえば親族で真逆の結果です。それも前職の息子を滅ぼしてまで・・・

絶対に後講釈か演出、手心の類だと思いますが、「天智天皇は当初から実弟の大海人皇子に皇位を継承するつもりだった」というお話があります。やはり眉唾ですね。

歴史上人は自分の子供のために「何でもする」というのがお決まりのパターンですから。

 

明治になってから、そんなことは「どうでもいいような話」とはいいながら、やはり「気の毒すぎる」という意見もあって、「実は一旦即位して皇位は継承していた」(39代)というすこしばかりこれも「無理かも」というウルトラCが決定されています。

あとから順番が一つ繰り下がっただけですが。

 

名は弘文天皇。

即位時期は元号はややこしいので西暦にしてそのままうつすと・・・672年1月9日~672年8月21日です。要は天智天皇が亡くなった2日後に皇位継承を行い、亡くなった日までが在位期間。何とも短い在位となります。

 

しかし、この「後付けの美談」、却ってこのことを通せば、「クーデター」を容認したようなものになるような気がします。

実際に皇位継承している弘文天皇を自害に追い込んだ大海人皇子(天武天皇)は「天皇殺し」の汚名を着ることにもなりかねませんね。

 

恣意的に歴史をいじくり回すと大いなる矛盾に突き当たることは当然でしょう。過去のことはすでに決まってしまっているので。

 

さて、画像は弘文天皇陵です。宮内庁の管理地になっています。

こちらの陵墓は案外行きやすい場所にあります。

正式には長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)といいます。

このあたりは近江園城寺(三井寺)の寺域で「長等山」と呼ばれています。

大津市役所(場所はここ)の界隈。消防署の裏、市役所駐車場の隣です。大津商業高校に挟まれた森になっていますが表通りからは入れません。

市役所駐車場の奥からも出入り口がありますのでそちらからショートカットできます。