先日は何事にも満足し、多幸感を抱くことこそが健康長寿の秘訣であることを記しました。
まさにその通りだと頷かされた次第でした。
さて、蓮如さんに付き添い、90歳という高齢まで「身を軽くして」動き回って本願寺の維持と再興のために尽した人に道西(1399-1488)という人がいます。
その人が亡くなった頃といえば、南殿完成の約1年前。
山科本願寺が「本願寺」としての両堂を完成させたのが1483年ですのでその6年後でした。まさに悲願を成就達成して充足感満点の心境だったでしょう。
道西という名は蓮如上人から賜った法名ですが、のちに善従と改めていますので、「蓮如上人御一代記聞書」の中ではその「善従」という名で登場します。
近江堅田の対岸、現在の守山市金森町出身で「川那辺弥七」が俗名、「金森(かねがもり)の善従」が通称でした。ちなみに蓮如さんも彼の出身地である金森に滞留していますが、湖東の滞在地といえばまずはこちらのことをイメージします。
「蓮如上人御一代記聞書」の197に晩年の善従について記されていますので転記します。
『金森の善従に、ある人申され候ふ。
このあひだ、さこそ徒然に御入り候ひつらんと申しければ
善従申され候ふ。
「わが身は八十にあまるまで徒然といふことをしらず。
そのゆゑは、弥陀の御恩のありがたきほどを存じ、
和讃 聖教等を拝見申し候へば、心おもしろくも、また
たふときこと充満するゆゑに、徒然なることも
さらになく候ふ」
と申され候ふよしに候ふ。』
です。
ある人が善従に「最近、相当暇でしょ?」(退屈で面白くないでしょ?)と聞きました。
「(冗談じゃあない)私は八十超えたこの齢までそんなことは感じた事は無いですよ。その理由は阿弥陀さんのご恩のありがたさを思って、和讃や聖教(正信偈)を拝読していますので、心地よく愉快で楽しく、ありがたさで溢れています」
ということでした。年齢を重ねて尚、楽しく面白く満足していることがうかがえます。
1400年代の80歳、90歳は今でいう100歳のレベルでしょう。
500年以上前からそのことを指摘されていたように感じます。また「徒然」などはイケナイことなのですね。
「身を軽くして」の表現は私の好きな一節(311)。
蓮如上人仰せられ候ふ。
世間 仏法ともに、人はかろがろとしたるがよきと
仰せられ候ふ。
黙したるものを御きらひ候ふ。
物を申さぬがわろきと仰せられ候ふ。
また微音に物を申すをわろしと仰せられ候ふと 云々。
世間も仏法も「身を軽くして努める」のがよい。
黙りこくっていてはダメ。何かしゃべらないことは悪いこと。そして小さい声でしゃべるのも悪い!!。
おしゃべりで声がデカイと各所で時として怒られていた私は、この段、別に意があるにしろ好きな文言ですね。
「重々しくない」といわれることも心外でしたが、この言葉によって開き直れます。
心も軽く体も軽くオマケに口も軽く・・・。しかしほどほどに。
画像は山科本願寺跡の東御坊と阿弥陀さん。
報恩講のポスターが光っていました。
コメントをお書きください