隠居といえば、のんびりの「悠々自適」なんぞいう言葉でもって形容されがちですが、蓮如さんが第一線を退いたあとに籠ったといわれる山科本願寺の南殿は、山科本願寺全体に言える事ですが、堅固な土塁と堀を廻らせた城塞でした。
京都は盆地として有名ですが、この山科の地はその京都への東海北陸からの入り口にあって(粟田口)、あるいは宇治方面へ南下する街道上の要衝でしたが、その山科という地域全体も周囲を山に囲まれた規模は小さいながらも盆地状の地形にありました。
安祥寺川、四ノ宮川等の河川から注ぎ込む水流から形成される山科川も、宇治川の支流となりますがそれらの川が天然の堀として機能させて門徒たちを集め「寺内町」として発展しました。
当初の蓮如さんの本願寺は延暦寺からの追捕によって近江から北陸方面へ逃避行の時代で、蓮如さんは京都東山大谷にあった本願寺を元の場所に戻す事を悲願としていたことは当然でしょう。
戦乱時代(応仁の乱)も一応の終焉を迎え何とかこの山科の地に落ち着くことが叶って、「さあ、これから」という気持ちで「浄土の国」の建立に思いを馳せたことが伺えます。
蓮如さんはこちらの南殿の完成から10年後の明応八年(1499)に没しますがその間、「御文」や「聞書」に記されている数多の言葉を残しています。
山科の本願寺は蓮如さんのあとは9代実如さん10代証如さんへと継承され石山御坊から本願寺として発達した11代顕如さんの時代へと本格的戦国の世へと突入していきます。
よって本願寺が周辺の室町幕府中枢にあった戦国大名化していく過程にある各勢力と利害を共有あるいは離反する中、武装化容認となって、「一向宗」あるいは武装化したそれは「一向一揆」として開祖と阿弥陀の教えを中枢にしつつも先鋭化していきます。
よってこの山科本願寺の本格的城塞化は蓮如さんの亡くなったあとからですね。
本拠地を大坂石山本願寺に据えるのは10代の証如さんですが、そのきっかけは武田信玄や11代顕如さんの義兄になる、管領の細川晴元に近江守護、六角定頼、そして当時京都市内の町衆に爆発的に流布していた法華一揆の連合軍によって山科本願寺は包囲され、灰燼に帰してしまったことです。
色々な思惑が交錯し各々の利害によって付いたり離れたり、信用もへったくりも無い時代でした。
京都市中を宗教的に掌握したかにみえた法華宗ものちに市中で「自治権」を振るい、旧宗教勢力の比叡山とも敵対してしまいます。比叡山は六角定頼と連合して京都市中内外の日蓮宗の二十一寺を焼き払い、抵抗した数千人を殺したとあります。
南殿は蓮如さんが晩年10年間を過ごした地ですが、当初「光称寺」という寺がその跡に造られました(1536)。現在は「光照寺」と名を変えています。
南殿は200m四方の規模だったといいますが、持仏堂や山水亭や庭園なども備え、蓮如さんのプライベートスペースでした。
現在も、住宅地にもかかわらず広くその形跡である土塁等が残されているのはお寺に付属する幼稚園(南殿幼稚園)があるからです。幼稚園の周囲を取り巻くようにその遺構は残ります。
幼稚園内に入ることは就園時間は難しいかと思います。
私は早朝、幼稚園バスが園児のお迎えに出る前にお邪魔して、許可を得てから散策させていただきました。
このような遺構の上に建つ幼稚園に通える子供たちに羨ましさを感じます。グラウンドも広く環境も最高ですね。
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