16日の朝は冷えました。
前日から東京都内の式場にお邪魔していましたので翌日の葬儀にあわせて西新宿に投宿していました。
折角の新宿ということと前日の雨があがって絶好の散歩日和?と思い朝5時過ぎに起きて、朝食時間(7時)まで付近散策。
宿を出て半袖シャツ1枚の体感に「こりゃたまらん」と駐車場へ寄って積んでいたトレーナーを重ねました。
北半球は紛れも無く冬に向かっていますね。
さて、前夜の通夜式が終了したあと宿へ入り「ほっこり」しながら部屋のテレビを点けると、NHKから「なるほど」と思わせる話題が放映されていました。お馴染みのあの番組「クローズアップ~」の深夜再放送版です。
タイトルは「“百寿者” 知られざる世界 ~幸せな長生きのすすめ~」ですね。
その日の通夜で「再会」した故人の年齢は101歳。
自宅介護のうえの老衰とのこと。天寿を全うしたのでした。
勿論、当相良の出身です。
縁者は故人の性格を「病気無し 絶対に怒らない 温和な人 人に振舞う人」という故人の性格と健康的体質について語っていましたので、その番組の内容は将にタイムリーな話題でした。
どこかで「健康年齢」について静岡が女子1位男子2位で全国総合1位であると「自慢」しましたが、「百寿者」という名も最近耳にしています。
最近では、「百」という御長寿がどのようにしてなされたのか研究が進んでいるようです。
逆にいえば百歳まで健康に生きるコツみたいなものがあるのではないかというのが今回の放送の核心かも知れません。
「健康で長生き」は誰もが願う、いわゆる「最期の迎え方」ですので、そのコツが掴めればこのうえないことです。
まず、糖尿病と脳いっ血等にならないようにすることは勿論ですが、ストレートにその答えを記せば「多幸感」です。
肉体的にも健やかで尚且つ精神的に「脱皮」しているようです。
それは「ありとあらゆること」に「幸せ」を感じるということだそうです。
煩悩や強欲にまかせて毎度愚痴ばかり言っていたらそれは命は縮まるでしょう。精神的にも良くないですね。
驚かされたのは、肉体的に車椅子の利用やベットに寝ている時間が多く一見不自由な環境の中にあったとしても、精神的充足感というものが御長寿の皆さんには共通してあるということです。
できないことがあってそれを悔やむのではなく、できる事に喜びを感じている状況がそこにありました。
そして人はそのような老年期に入ると、穏やかで身の回りの環境を「肯定」、いつも幸せの気持ちで溢れてくるといいます。
それを「老年的超越」というのです。
その領域に入る前は人は大抵が病気や死への不安があるそうですが、ある齢を過ぎてくると、「今のまま」「不満なし」の域に到達するのだそうです。
私はその年齢帯を「仏」の域に将に達しているよう、と感じます。やはり先に送った(往生した)縁者との関わりを主体に生きるというスタンスも顕著となるそうですが、それこそ仏教の役割であると再認識した次第です。
「オレは長生きなんかしたくねぇ」と若い人たちの声が聞こえてきそうですが、まぁそんなに強がりを言っていないで、その「超越」を目標にして生きようとしてみるのはいかが。
そんな「超えている自分」を心掛けるだけですべての人が幸せ感満点となる社会が築けそうな気がします。
画像①は宿から出た際のもの。久し振りの高層ビルの風景の元を歩きましたが、公園には通勤時間前にどこからこれだけ人が湧き出てくるのか、不思議に思うほど朝の散策やジョギングを楽しむ人で溢れていました。
②③は代々幡斎場。閑静な住宅街に立つ式場兼火葬場です。
山の中に追いやっている火葬場では無く、「お隣は火葬場」という感じ。もっと違うのは待ち時間40分。「無茶苦茶早い」ですね。これはガスの高温燃焼と煙を出さない方策でしょう。
葬儀式の時間も初七日込みでやはり「40分」の「東京ルール」です。
こんなに早く拝読していいの?と思うくらい「ちゃっちゃと」おつとめして、御文の拝読を終わってみればギリギリでした。
時間の配分が至上命題の地なのです。
④代々幡橋、ご遺体はこの橋を渡って、「夕べには白骨の身となれり」です。こちらは幡ヶ谷駅から数分の一等地(場所はここ)という所が凄いのです。
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