たまたまこうなって・・池田輝政周辺 長久手戦跡

ちゃきちゃきの秀吉子飼いで、ただ「石田憎し」のためのみ?に東軍家康に加勢した福島・加藤などは西軍負け組の薩摩・長州の東上の抑えに置いたことは見当がつきます。

島津と毛利は弱体化させるもなぜかそのまま、領地を安堵するという太っ腹でした。

まあこの両国を関ヶ原直後に潰してさえしておけば1800年代中盤に起こる攘夷から尊王、討幕という構図は変わっていたのではと考えると、これは結果論ですが完全な家康の判断ミスでしたね。のちに難癖を付けて福島・加藤を取り潰したにも関わらず毛利・島津をフリーにしたことはあきらかに失策でした。

 

毛利など禁門の変、長州征伐とギリギリのところで生き残り、明治以降長州藩人脈が顔を利かせることになったのもただただ歴史のあや、歴史の幸運に恵まれていたとしか言いようがありません。

もっと遡れば本能寺の変もそうですね。

あの事件が無かったらきっと私のご先祖様も信長に殲滅されて今の私なども無かったことでしょうが、あの時中国征伐が完遂されていたならば毛利という家系もおそらく無くなっていたことでしょう。

まぁ、歴史の「タラレバ」はキリがありませんね。

 

どちらにせよ遠国(おんごく)に置かれたそれらの大名は徳川家からすればいっしょくたに要警戒の「外様大名」。

「播磨・姫路宰相」とも呼ばれた三左衛門、池田輝政は徳川家から見ればどう考えてもやはり「外様」ですね。

 

ところが彼に対する家康の信頼はほとんど身内同前の扱いの様です。

話は飛んで小田原戦の責をとって四代北条氏政と氏照の兄弟は腹を切らされましたが「五代氏直は高野山」は家康の娘婿ということもあり助命嘆願の甲斐あって秀吉の許しで高野山に追放されています。

氏直はのちに秀吉に赦免されますが大坂で病没し残されたのが家康の次女督姫。

その督姫が再嫁したのが池田輝政(仲人は秀吉)でした。

そういうわけで家康は輝政の義父、婿殿ということになったのでした。

 

かわいい娘に二度と寂しい思いをさせたくないと思うのが父の気持ち。いよいよ家康が婿殿に気を使った理由となったのかも知れません。

姫路という地に大規模な城郭を築くのは家康の意向があったことは言うまでもないこと。

大坂城には当時豊臣秀頼が鎮座していたわけで、いつ西国の外様が秀頼を冠にして集結、東軍と今一度一戦交えぬともわからない状況でした。

 

そこで登場するのが家康の婿殿、輝政でした。

大坂と西国を分断するためですね。

家康も相当に信頼を置いた「外様」だったわけです。

 

輝政にも勿論多くの葛藤があったでしょう。

いわゆる世間の目というもの、「宰相」ともてはやされたとしても何らかのわだかまりは当然にあっことでしょう。

天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いで、父池田恒興は家康の裏をかいて三河浜松方面に出陣して戦線を分断する策を講じますが逆に恒興と兄の元助が討死してしまい輝政が家督を継いだという経緯がありました。

 

往古より隠居といってしゃしゃり出ることはありますが(黒田官兵衛しかり)、勝入斎(恒興)は長久手にて何か抱いたであろう夢は途絶えたのでした。

それにしてもここでも「池田」という家の断絶があっても不思議では無いような事案が起こっていたのでした。

みんな一言、「偶然」で生かされているということでしょうか(場所はこちら)。

 

画像は勝入斎討死の地、長久手。

小牧山とセットで歴史に残ります。