かつて箱根は地獄だった 今は散策にもってこいの場

当流御開さん親鸞聖人の活動した平安末期から鎌倉時代の人々の最大の畏怖を世相を反映させて一言でいえば「地獄」でしょう。世相とは源平の戦乱、鎌倉期に於いても止むことの無い戦闘、飢饉、飢餓、疫病の蔓延そして親鸞聖人が亡くなった(1262)直後に起こった文永(1274)、弘安の役(1281)で国が疲弊した「元寇」の時期です。


 それらは現世であろうが来世であろうが私たちが居られる場所といえば「地獄」しかないという思いを増長させたことでしょう。

「とても地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄)そのものだったと思います。


 鎌倉に幕府が開かれて武家の幕府と従来の都、京都との往来が本格的に動き出しますが、こちら箱根路はやはり難所中の難所だったことでしょう。


 箱根の東海道では「多田満仲」(場所もこちらに)の宝篋印塔を紹介しました。芦ノ湖から小田原方面の登り始めてから「芦の湯」という温泉地がありますが、その手前左側には「精進池」があります。右手前方というかスグ上が小田原市内からも見られる二子山が鎮座していますね。


 この池と国道の間にひっそりと建っているのが多田満仲のものといわれる宝篋印塔があるのですが、そこからスグの崖にはいわゆる磨崖仏が彫られています。


 そちらの地元の解説版にあったのが標記、「箱根=地獄」。現世に見る地獄のイメージそのものだったのでしょう。

好天のそちらはまったく気持ちいいそのものですが、雲行きが悪くなれば霧が発生したり、冬場の徒歩(かち)など、これまでの東海道の行脚に慣れた人でしたらまさに寒くて地獄の思いはわかりますね。

 そこここに道端には、行き倒れたり、追い剥ぎに襲われたであろう死骸などを目にすれば地獄を思わぬ人は居なかったかもしれません。


 「此山には地獄とかやもありて 死人常に常に行あひて

故郷へ言付けなどする由 数多記せり」

『春の深山路』弘安三年(1280)とあります。


 それからこんな文言も・・・

「実にくらきよりくらきに迷ふ 生死流転の世の中

夢かとおもへばまた目の当たり 死出の山の名ありて

六道のちまたもほど近かるべし」

『七湯の枝折』~しちとうのしおり~文化八年(1811)


 掲示板には「重要文化財 磨崖仏 俗称二十五菩薩」とあります。石仏の銘文には永仁元年(1293)と記されているものがあります。


 「死出の山」ですか・・・学生時代からずっと、東名高速も箱根新道(今は無料)も高速代をケチってこの道をよく使用していましたが、深夜こちらを通過するのは余り気味のいいものでは無かったですね。①は唯一ある立ち姿の阿弥陀さん。菩薩がそのあとに続く来迎の図を磨崖仏で表現しようとしたものでしょう。