「牛頭」と書いて「ごず」。
地獄に堕ちた亡者たちをさらにいたぶりまわす獄卒悪鬼は「馬頭」(めず)とペアになって各文書、絵巻物に登場しています。
地獄に堕ちてなお、あのような化け物に追い回されるのは勘弁していただきたいものです。
その「牛頭」・・・牛の頭、角に松明を括りつけて敵陣に突進させるという恐ろしげな戦法が「火牛の計」です。
本邦では木曽義仲と配下の今井兼平、兄の樋口兼光らによる対平家殲滅戦大勝利の倶利伽羅峠の戦いですね。
元々は中国の斉という国の将軍の戦法でその時は牛の角に松明でなく刀剣を付けてから「尻に火」ですからより攻撃的。
倶利伽羅峠の「火牛」では果たして牛がうまい具合に動いてくれるか不明ですので「脚色説」もありますが、10万の平氏軍は総崩れになって敗走しその半数が峠の崖に追い込まれて堕とされたといいます。
その「火牛の計」を再現したのが伊勢宗瑞(盛時)=北条早雲です。明応四年(1495)の9月に小田原の大森藤頼を謀略と「火牛」によって小田原城を奪取します。昨日も関東で地震がありましたが丁度この頃だったでしょうか。
何処から集めたのか1000頭もの牛の角に松明を付けて怒涛の如く攻め寄せたといいます。城方は油断の上に数万の軍勢と思い込んで早々に城を捨てて逃亡してしまったとのこと。
ところが面白い資料があります。日本考古学協会会員 金子浩之氏によると、この「牛」とは「津波」の比喩であるとの説。
『鎌倉大日記』によると
「八月十五日鎌倉由比浜海水到千度檀水勢大仏殿破堂舎屋溺死人二百余、九月伊勢早雲攻落小田原城大森入道」とあって金子氏は津波災害によって混乱状態に陥った状況に乗じて小田原を襲撃したという説を展開しています。
明応四年の大津波は鎌倉で20mと推測されているそうです。
また、伊豆の伊東では土石流の事を「牛」「赤牛」と喩えていたともいいます(笹本正治氏)。そのどちらも沢筋や池に面した土地にまつわる伝説とのこと。
土石流にしろ津波にしろこれらの自然災害は人智を超えた無慈悲な超強大な力であり、それらをコントロールを失った怒涛の如くの牛の突進と喩えたのではないかと。
人々には「あらゆる狂気」=「暴れ牛」のイメージもあったことでしょう。
津波による直接被害の無かった伊豆国韮山城の伊勢宗瑞が津波で大被害の小田原を侵略することは容易かったことは大いに理解できます。
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