大澤寺からスグ?  寺から直線で行く中川清秀墓

佐久間盛政が大澤寺の梵鐘を乱打したのは「かなりの緊急事件」を味方に報せるためですね。

 

 私が小さい頃、報恩講などで祖父から「鐘を撞いてきて」などと言われると歓喜して躍らんばかりに鐘楼に駆け上がったものですが、その際必ずといって祖父は鐘楼の下に寄って来て「早打ちに気を付けろ」と念おししました。

その次の台詞は必ず「火事に間違われる」でした。

 

 昔から喚鐘・梵鐘の類の「早打ち」は火事などの「のっぴきならない用件」を周辺に注意喚起し、ヘルプや退避を求めるものでしたね。

 

 こちらの鐘を佐久間が乱打して報せなくてはならなかった事情とは、秀吉の「中国大返し」に次いで囃された「美濃大返し」です。

大返しと言えばこの反転を「大垣大返し」とも呼びますが、まるで昨日の甲子園球場、「大垣日大高校」の「大返し」の如くの「劇的」でした。

 

 脱線しますが、そういう逆転劇をやたらと「最後まであきらめない」等の美辞賛辞で述べられる傾向にあるようですが、私は「人生、そういうこともある」と「ただの偶然」を思います。

 たまたま敗者となった者たちにもそれは言える事であり負けたことは「諦めた」からそうなったと解されかねません・・・。

 

 さて、秀吉は本能寺の報せを聞くやうまいこと後方をまとめて驚異的スピード反転によって帰京し明智光秀を山﨑で滅ぼすという栄誉を完遂しました。その大成功「中国大返し」に味をしめたのか、膠着状態の戦線を打開するための戦法としてその手の陽動作戦を使っています。

 

 心理作戦の一つですが相手に誤認や錯誤を起こさせるべく行動し、相手の意表を突くというものです。

 

 秀吉自身が動いたのではなくこちらは、失敗に終わりましたが家康を相手にした小牧・長久手戦なども「意表を突く」「裏をかく」といった狙いとしては同じようなものでしょう。

 

 秀吉が賤ヶ岳の戦いの本戦直前、賤ヶ岳の膠着状況から織田信孝(柴田勝家が推す)の再蜂起討伐戦のために岐阜城を包囲し、大垣城に滞留していたのですが、ある報が飛び込んで一気に近江木之本に一気に駆け付けたというのがこの「美濃大返し」です。脇往還を下って5時間の移動です。

これを目の当たりにした佐久間盛政の慌て振りがこの梵鐘の乱打でした。

 

 秀吉が大垣から木之本に駆け付けたそのタイミングこそ大岩山に布陣していた中川清秀の死です。

 

 中川清秀は荒木村重があの時ビビりながらも信長に謝罪に安土へ向かう途中、「行けば殺される」と諭して謀反、有岡籠城を注進した張本人ですね。

彼はいざ信長軍に包囲されると従兄弟の高山右近とさっさと信長に降伏開城してしまいました。有岡城は逆に信長軍先鋒となった高山・中川に攻められたうえ史上屈指ともいえる惨劇を招きました。

 

 佐久間盛政の撞いた鐘のある大澤寺は大岩山の麓にあってその少し上には大澤神社があります。それ以上は道も無くなって山の斜面となります。

諦めて来た道を下ろうとした際、念のためお寺の入り口近くの民家の方に声を掛けてみました。

 

 「中川清秀の墓はどこですか?」「この山からあがれますか?」と。

中川清秀は秀吉の命でこの大岩山に布陣して、佐久間盛政の急襲にあってこの山の陣で奮戦討死しました。

秀吉はその報せを聞いて大垣から取って返したのでした。

 

 柴田勝家は「勝って兜の緒」ではありませんが大岩山の撤収を佐久間に命じていましたが、その命には従わずに油断しすぎ秀吉の「瞬間移動」に大いに動揺して浮足立ち敗走したといいます。

 

 私はグーグルマップを使用しますが、武将の墓の位置などをピンポイントで記している場所は滅多にありません。

ところが何故か木之本大澤寺の北、大岩山を拡大スクロールすれば「中川清秀墓」と記されます(場所はここ)。大岩山砦跡です。

 

 その地図をスマホで見ていたため、地図上での直線距離は目と鼻の先と感じて、住民の方に声を掛けたのです。

返答は「昔からここに住んでいるが道があることは聞いた事が無い」とのことでした。しかしこのお宅から数十m戻った場所の土蔵には「中川清秀墓」の案内板がかかっています(画像① ②画像赤丸印 上に大澤寺鐘楼が見えます)。

賤ヶ岳合戦図屏風
賤ヶ岳合戦図屏風

少しばかり悩んだ挙句とりあえずスマホをナビソフトにしてこの山腹にはり付くことを決めました。

 

 理由は新たな進入路を廻り込んで探すのは面倒ということと、佐久間や中川の兵は、道など選んでいるわけはなく、当時を想うには絶好の機会と思ったのでした。

 

 道の無い斜面を登る途中の難渋はご想像にお任せするとして、各所に掲げられた看板等の立つ尾根に登りきった時の達成感は何とも言えない心持です。

ナビの便利さにも感動した次第ですね。

 

 帰り際に、中川清秀の首を洗ったと伝わる池の案内があり、尾根より若干斜面を下りたため、そのままの勢いで「帰りの方向」に向かいつつ降りましたが、結局は車を停めた場所からは1㎞程度離れた場所に行きつきました。

 

 行き当たりばったりの道どりの場合、どうしても歩きやすいコースを辿ろうとするために、ありがちなことです。行きやすい道を行くということは方向を違えているということですからね。「急がば廻れ」とも言われますが・・・。