城砦の立地条件は陸地なら街道筋、河川なら浅瀬や河口等物流・兵員等の流れが多い場所でかつ周囲に見通しのきく立地になります。
そういう意味からも比木の城山、殿山の付属的な城であったにしろこの地に城塞的施設があったことは合点がいきますね。
先般お亡くなりになった浜岡の「鈴木東洋氏」によれば、「城ケ峯」と。
落居から上がる尾根から「名波」地区に下る街道の南側にあたります(場所はここ)。
一山超えた北側が比木、須々木から池新田方向への街道があります。
航空写真を見て頂ければ一目瞭然、比木筬川流域の平坦地を包み込むようにある舌状台地の東淵にあって特に直下の街道と西方を見渡すことができる場所になります。
前述の鈴木東洋氏は比木三城は相良城―当時は滝堺城あるいは萩間川(相良川)河口西側の陣台山―から高天神城への兵糧搬入路について、塩買坂ルートの徳川方に浸潤されてのリスク回避、いわゆるプランBとしての繋ぎの城たちだったと解しています。
特にこの三番目の城「城ケ峯」は他の二つの城への烽火(狼煙)台としての役目であったことを指摘しています。
この城のトップには赤白ツートンの中部電力の鉄塔が建っていますので非常に分かりやすいです。
麓には数年前まで「清印寺」さんがありましたが取り壊されて既に森の一部と化していました。
清印寺さんの檀信徒は先日記した正福寺さんに併合されていますが、この山の南西麓には各所地元の墓地域となっています。
興味をひいたのは、この清印寺さんの山号は「城峯山」です。
このように古い寺の消滅により人々の記憶からそういった名称が消えていくことは寂しいことです。
中電の鉄塔管理の道がありましたので少々チャレンジしましたが、イキナリ竪堀遺構らしきものに当たり期待度アップしました。ただし山頂まではあきらめました。
藪蚊の襲来もそうですが、茂りすぎ確認も不可、冬場の宿題としました。
「街道」で紹介した8枚目の「源吾の首切坂」手前画像にこの赤い鉄塔が映っています。首切坂からの敵方の襲来はいたって容易く確認できるはずです。
以上から三つの城塞施設は武田方一連の造作によるものとの推測がなりたちます。その時期についての推測もしやすいですね。
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