以前「御殿」の称 今は目下「殿」 比木殿山城

「信長様」「秀吉様」「家康様」の台詞は少々番組のサービスが過ぎますね。視聴者に「誰?」と思わせない配慮でしょう。

 

かといって「小一郎」や「佐吉」((羽柴秀長 石田三成)等の名も飛び交っていますので、まんざらそうとは限りませんが、まぁ番組の進行上後者の名などどうでもいい部分でもありますのでそう細かいことを知った振りでもして語っても仕方ないことでしょう。老若男女楽しく見られればそれでヨシですね。

 

 ブログでも記していますが、歴史上「わが殿」の事を実名で呼ぶことなどは絶対にあり得ないことでした。
尊き方が「いらっしゃる」「住まう」場所や建物の名称、あるいは官職を呼ぶことが常でそれを発した者の身分や立場から推測するものでした。

紛らわしい場合は頭に地名を付ければ事足りることですね。

 

 天皇は「御所様」上皇には「院」(院号も建物-寺-の名)、隠居後死後の家康には「大御所」や「東照宮」が有名ですね。

尊ぶべき女性も同様でたとえば「お市さま」「お濃さま」は無いですね。「御簾中」「奥方」「裏方」「北方」「北政所」「お北様」等も建物や場所で呼んだはずです。

 

守護職、守護代等幕府承認で拝すれば「屋形」「御屋形」と呼ばれました。その辺りの敬称は相手が喜ぶものですから「御屋形」、「館」は最上級で「上様」、「殿さま」そして気安く「殿」あたりが親しみもあってスンナリしたイメージです。

 

 現代になってそんな「殿」の気安さに、各個人の「自分が一番偉い感」が増幅し近代化した結果なのでしょうか、その使用についてサラリーマン諸兄、「ご注意あれ」と指摘がありましたことはご存知のことでしょう。

 

 不思議な意味の変遷ですが「殿」は現在、どちらかと言えば「目下」「格下」の相手に使う言葉になっています。

殆ど気にはしませんが本山系から発せられる当山宛の郵便物でさえ、「殿」の使用はなくて、「御中か御院」になっていたと思います。

当方からして大いに尊ぶべき本山からの「御下知」であり「大澤寺殿」等の「建物名に殿」であったとしてもこれは「人の名に殿」とはまた違う雰囲気で、全然構う事は無いのですが、既に「殿」使用は「失礼」にまであたる語彙になってしまったかのような気がします。
 

 上司が部下にメールや手紙を送る場合のみに使われるようになった「殿」使用の立場、随分と景色が変わりました。

当然、私も既に「殿」使用は避けるようになりました。

そもそも「目下、格下」の感覚が当流にあったら「同朋」の語が泣きますね。

 

 さて、昨日お知らせした比木の城山(比木城)を本城とする―この「本城」という語も敬称呼び名にあります 「御本城様」―出城的な城跡があります。比木城山よりさらに台地の先端部に位置し、比木の谷部集落を走る須々木から浜岡方面に抜ける県道239号を真下に見る「比木三間」にあります。

 

 地元では昔からその山のことを「とんのやま」と呼びこの城跡が「殿山城」になります(場所はここ)。

比高20mとさほど大きくは無くボタ山状で周囲は南から西にかけて人家、北は比木城山のある台地に連なる山間部、東側は谷あいとなって比較的急峻になっています。街道から本城に向かって攻め上がろうとする敵を攻撃することを想定した施設だったのでしょうか。

 

 この城は天正以降に小山、相良から陸路高天神に兵糧を運ぶために街道脇に作られたと言われています。

夏場の登城で未確認場所各所ありましたが、土塁・曲輪空堀の跡十分確認できました。

 

 空堀に渡る土橋らしきものに石積みの跡がありましたが造作の時代は不明。土塁下部にも石積みが見えました。

ここも冬場に訪問しなくては話になりません。

登城口に関しては、おそらく東側の谷に「遍照寺跡」(現在は藪と田になっています)という地名がありますのでその寺からの登城口が大手だったのかなという推測です。

 

 ちなみに「遍照寺」という名を一目見てああこれは「時宗」でしょとピンときます。

勝間田のところでも記していますが、今川以前の斯波系守護時代は領主が「時宗」に帰依していますので。

今川の勢力拡大とともに衰退していったかと。

また、「遍照」とは「あまねくてらす」で阿弥陀如来のことに他なりません。

 

 その大手があったろうという道は探そうという気も起こらず、北側の山道から上がる農道らしき細道を上がる事にしました。この道は墓地に繋がる道でした。

付近住人が墓地として管理しているようでした。

 

 「古城研究会」によればこの城の周囲に「おかたやしき」「うえやしき」「りようもん」という地名があり、在地勢力(武田勢?)が構築した根古屋の存在を窺わせています。

 

 ①②青矢印が殿山城、赤が比木城。③は谷から南。⑥は北側から東の谷を見下ろした遍照寺跡推定値。⑦は秘密の登城口。まず見落としますね。この付近にはホタルが見られる筬川(おさがわ)が流れています。意外ですが相当西に向かって駿河湾ではなく遠州灘に繋がっています。この城の目の前の橋の名が「海戸橋(かいとはし)」。

 

 「海に繋がっている」というイメージですが、昨日記した比企氏末裔の海を越えてやって来た故郷の思いのようなものがあるといえばこじ付けでしょうか。