鎌倉 妙本寺は比企能員屋敷跡

さあ、8月。次々と日ばかり巡り恐ろしく感じます。

今年もまだ水にも浸かっていないし、まぁ海水浴場など行こうとも思いませんが最近、鎌倉方面、特に御無沙汰しています。

ニュースでは逗子の海浜条例の変更が話題になっていますね。

夏の海水浴シーズンと重なればますますあの地に行く気は失せます。

「奥の墓道」らは横浜港南区から鉄道で「僅か一山」という感覚ですから私とはまったく事情が違いますね。相変わらずちょくちょく歩き回っているそうです。

 

 悪口を云わせてもらえば、あの生活排水臭が鼻につく海水浴場、逗子・由比ヶ浜・湘南に大渋滞をおして大挙する南関東人に痛烈な憐みを感じてしまいます。

都会人は鼻の感覚も確かに不能になっていますね。

 「人ゴチャゴチャ」はある意味(経済効果のみです)羨ましいことですが、最近は意趣バカ騒ぎ風の連中の横暴ともいえる振舞には辟易として、こうなったら(齢をくった!)「関わらない」方がイイという感覚が先に立ちます。

 

 その人だらけで古都の風情とは程遠い鎌倉の、八幡宮の海側で東部方面を守護する位置、比較的今の駅からも近い場所に比企氏の館がありました(場所はここ)。

その屋敷跡に建てられたのが妙本寺です。

この地区は今でも「比企谷」(ひきがやつ)と呼ばれていて地名としても地元では著名な場所として残っています。

 

 後世「比企の乱」と呼ばれていますが、頼朝後の北条時政・政子たちの政権奪取のための謀略です。

頼家が18才で二代将軍になりますが、源頼朝の乳母の系統から頭角を現した比企氏の比企能員の娘(若狭姫)を妻にし「一幡」を産みました。勿論、三代将軍候補です。

 頼朝の妻と義父(北条政子・時政)が政権中枢に力を及ぼし、他を排したように、今度は比企氏が一気に台頭してきて北条家が追われるというリスクが発生したということです。

 

 政子が養育した千幡(源実朝)を擁立しようと画策していることは比企能員に察知されていましたが、比企は準備万端いつでも挙兵できる態勢を整えていたにもかかわらず時政にまんまとおびき出されて討取られてしまいました。

タイミングを間違えてかつ油断したことによる滅亡の例でした。

比企が先手を取ったら歴史は変わっていたかも知れません。

ここは「先手必勝」でしたね。④⑤比企一族の墓。