姉川合戦図屏風の「九字名号」について思う

当流の「六字、九字、十字」各名号について、何度か記しています。

要はこの文字(名号)そのものが「御本尊」であり、その御名を唱える(「称名」)ということの根拠が

「正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり」(「教行信証」行巻)

でした。

『蓮如上人御一代記聞書』には「仏像よりは絵像 絵像よりは名号」がイイと仰っていますしね。ただしこれは言うなれば「どなたでもどうぞ」の言い換えでして、お抱えの仏師、絵師を持たなくともということですね。

 

 さて、当家の三代目釋祐伝の父親は成瀬藤蔵正義で元亀三年(1572)の三方ケ原で亡くなっています。

それより2年前、元亀元年の姉川の勝ち戦を描いた「姉川合戦図屏風」にはその雄姿が描かれています。

 ちなみにその「釋祐伝」名を倣って当山歴代、法名に「祐」の字が入ることが多いです。

祖父が「祐匡」、父が「祐英」ですので、今のところ私が勝手に墓石にまで刻んだ「愚楔」という法名は「その時」サラッと「釋祐光」に変えられることは違いないところでしょう。

 

 ブログでも何度か記していますが、その屏風には徳川方の2番手で奮戦した小笠原長忠率いる高天神衆、姉川七本槍の奇抜な指物も目立って描かれていました。

 

 そのように乱戦を描いた屏風ではありますが、そこここに武将たちの判別とアピールのために「掲示」した旗差物が目に入ります。

 

 特に印象的なのは「南無不可思議劫(光)如来」、九字の名号が屏風五扇上部に記されていることです。白地に墨で背景の図の色彩からは結構浮き出て見えます。

 

 徳川方の相手は朝倉方です。勿論、この旗があるということは朝倉勢に一向宗の合力したことについて示唆するものですが、おそらく朝倉領国(越前)をそれまで抗っていた一向宗門徒が「共通の敵」(信長)へ和議統一して出陣したということを描いたものでしょう。

 

 私の母方の家は近江浅井から出ましたし、当家初代も近江安土出身です。
そして何より近江は一向宗門徒が領内友好的に活動した場所ですね。

 

 私の存在には計り知れない人たち(御先祖)の影(おかげ)の存在がありますが、今知り得る僅かな人たちがあの時、あの地で殺し合いを繰り広げていたことを考えると、複雑な気分になりつつ、狭い日本の中、今の我々は色々な所で関わっていたことは必定で、やはり「日本人」というこの小さき島国の人々のDNAたるや本当にやはりみな「同類」と思うのです。

 

 画像③は盂蘭盆で新調した「九字」。

④は屏風の成瀬正義。