今年の盂蘭盆会法要は2012年に配布した「十字名号」の対となる「九字名号」=「南無不可思議光如来」のてぬぐいを昨日紹介いたしました、「清沢満之」冊子とセットにして檀家さんに配布いたしました。
現在の御内佛荘厳の御本尊周囲の様子は脇掛(わきがけ)右「帰命尽十方無碍光如来」(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい―十字名号)または親鸞聖人の御影、そして向かって左側が、「南無不可思議光如来」(なむふかしぎこうにょらい―九字名号)または蓮如上人の御影です。
ざっと感ずるところ、各ご家庭の御内佛では圧倒的にこの二つの名号が阿弥陀様の脇に侍り、親鸞さん蓮如さんの絵像が見えるのは5%程度でしょうか。
さて、ある人に言われました。
「これで脇は固まったので次は御本尊ですね」。
「南無阿弥陀仏」(六字名号)のことです。
ここで復習ですが、当流の御本尊とは・・・
「仏像より絵像 絵像より名号」でしたね(御一代記聞書)。
よって本尊は名号でOKなのです。というか本来は名号―「南無阿弥陀仏」―であるべきと、それがずっと実践されてきました。
当山には、「昔は本尊に使用した」と思われる名号や阿弥陀さんの絵像の軸が残っています。
在家では現在、絵像軸が主ですね。そして阿弥陀如来の像が鎮座するお宅もやはり5%程度はあるかと。
そしてその名号については今のところ中立。どうしようか考えているところです。
それは、あまりにも「本尊」になり得る「ど真ん中」。
本当は「9字10字」とも意味は阿弥陀如来の名で「称名」でもありますから十分に本尊としても不思議ではありませんが・・・。やはりあまりにもその「6字」のど真ん中を手ぬぐいに仕立て、これで「御内佛セット完成」などと吹聴したとすれば、さすがにお遊びの域を超えているかも知れず、微妙に不安であって畏れ多さが残るということもありますが、やはり理由は標記
「わしが阿弥陀になるじゃない」なのでした。
この語は 「石見の才一・・・浅原才市(あさはらさいいち)」という「妙好人」と呼ばれる筋金入りの真宗篤信者の詩の一部です。
才市さんの仕事は大工でしたので、彼が感じた阿弥陀さんとの思いを詩や歌にしてかんな屑や紙くずに記したといいます。
この詩はたった三行でありながら、真宗の神髄、「絶対他力」(少々軽々しい?・・・)の精神を表しています。
わたしがこの詩を聞いた時、頭をブッ叩かれたような思いがしたわけです。
「わしが阿弥陀になるじゃない 阿弥陀の方からわしになる なむあみだぶつ」
「私の計らいが何とちっぽけなものか、全部阿弥陀さんにブン投げちまえ」の精神でしょうか。
私はこの十字と九字の真中に立つのは「みなさんひとりひとり」だと思います。私もそれを目標に生き、生かされている事を実感しています。
寸足らず、あっさり系の小型の幕です。
正面の柱に九字と十字を引っかけてみました。
如来様の前に聖徳太子の厨子を引っ張り出して久し振りに御開帳。
驚いたのは12日の当ブログを見て静岡からお参りに来た方がいらっしゃいました。元は相良にいらした方のようでした。ありがたいことです。なまんだぶ。
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