遠州袋井の古戦場「木原畷」(きはらなわて)について記しました(1/29 1/30)。
三方ケ原(元亀三年12月22日)でボロボロの大敗を喫する
2か月ほど前のこと。
遠州中部を北(青崩峠)から蹂躙するが如く南下する武田信玄25000に対して、家康軍3000(総力は8000)は、まさにおっかなびっくり、「この目で見届けてやりたい」という気持ちからか家康自らが斥候に出ていました。
聞きしに勝る整然とした甲州軍の隊列、そして圧倒的戦力差を目の当たりにして家康は何を思ったのでしょう。
家康の背後には天竜川、それを渡れば本拠地浜松城が控えます。
とはいうもののここでの真向勝負など到底有りえず、これから本戦である決戦場三方ケ原までその対応を悶々と考えこんでいたことでしょう。
ただし三河武士というもの、往々にして楽観的、かなりの難題も「あっけらかん」な所もあります。
苦心して配下に組入れた今川からの武将と城が瞬く間に落とされていきます。その焦りはどれほどのものだったのかも想像できます。まったく為す術は無かったことでしょう。
ちなみに、落とされて開城した武将たちは早々に家康に反旗を翻し、今度は逆に家康に対しての先鋒として襲い掛かります。
相手に取られた「将棋の駒」によって次はこちらが逆に攻められるという状況と同じですね。
家康率いる斥候隊3000は何処に布陣して、甲州軍を眺めたかといえばこちら、三ケ野台です(場所はここ)。
太田川が削った扇状地の西から広がる台地の東岸端です。
こちらでの布陣であるならば、たとえ信玄軍が力攻めで丘を攻め上がったとしても地形有利である程度の交戦も撤退も安易な場所です。
もっとも老練の信玄はまず、拙速な力攻めはしません。
よってここにいさえすれば物見としてはまずまずの場所でした。
この斥候で家康が率いてきたのは家康の異母弟?内藤信成と本多忠勝らでした。ここでどのような会話がされてそうなったのかわかりませんが、内藤信成は手勢を率いてこの丘を降り、信玄の大軍にちょっかいを出しに行っています。
勿論、ハナから正攻法に組むことなど考えてもいないことです。
石を投げたり矢を放ち「罵って逃げる」程度のものだったでしょうが。
おそらくこの高台よりその様子をゲラゲラ笑いながら忠勝と家康は見物していたことでしょう。
信玄軍をからかいに丘を降っての逃げ役も忠勝と信成、冗談半分でその役を買ったのかと思います。
「三ケ野台先端」へ向かうには国道1号「岩井」交差点を入って一つ目の角を東に向かいます。
「岩井交差点」には牛丼屋の「すき屋」磐田店がありましたが、先日国道を通過した時は閉店中。ニュースでも聞きました、人材確保が出来ずの「既存店休業」でしょうね。
またこの交差点より少し行けば「遠州鈴ヶ森」があります。
「三ケ野台」は現在「大日堂」があって市民憩いの森の散策路になっています。ただし車止めがあって進入不可、停める場所も難儀します。
高台からの遠望は広く東海道が開け久野城からもうかがえた「シンドラーエレベーター」のタワーが見えます。
忠勝が此の高台から物見した松の木が立っていたそうです。
付近には石仏に五輪塔残欠、イイ風情です。いつ行っても人とすれ違ったことがありません。
最後の画像が国道1号バイパスから見た「三ケ野」の先端。
若き日の家康と忠勝らの「余興」が思い浮かびます。
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