真宗の阿弥陀さまのウェイトは特別 先請伽陀

東京にて時間が制約された葬儀の冒頭「先請伽陀(ぜんしょうかだ)」だけは通常(相良と同じ)テンポで読誦したことを記しました。

 

 その「先請伽陀」は声明の一つで、私にとって「伽陀」といえばコレですね。

特に葬儀式の冒頭に「詠い」ます。

出拠は「六時礼讃」と同様、善導さんです。

 

 「先請伽陀」は四つの句の最初が「先請」で始まるからそう呼びます。「先請」とは平たく言えば「まずは頼みますよ!!」ということですね。誰にどう頼むかといえば・・・何しろ阿弥陀さんにお迎えに来てもらいたいという趣旨なのです。

 

先請彌陀入道場

    まづ彌陀を請じたてまつる。道場に入りたまへ。

 

不違弘願應時迎

    弘願に違せず時に応じて迎へたまへ。

 

觀音勢至塵沙衆

    観音・勢至・塵沙の衆。

 

從佛乘華來入會

    仏に従ひ華に乗じて来りて会に入りたまへ。

 

要はこれからとり行う法要へのご招待の偈でした。

 

似たような偈にやはり善導さんの「三奉請(さんぶじょう)」があります。こちらは大谷派の葬儀式にありませんのでパスしています。

 

奉請弥陀如来入道場 散華楽

奉請釈迦如来入道場 散華楽

奉請十方如来入道場 散華楽

 

です。

阿弥陀さんが率いるその二番手からが観音・勢至の両菩薩(阿弥陀三尊)と「塵沙の衆」(諸仏の言い回し)であるか、お釈迦さん+十方の如来であるかの違いです。

 

 「三奉請」の面白いのは阿弥陀さんがトップで二番手(トップ下)がお釈迦さんだというところです。

まぁ「先請彌陀」にはお釈迦さんすら出て来ませんが・・・。

 

 実を言えば阿弥陀三尊形式というのは初期本願寺の御本尊形式の一つです。

時代が経って今は当然の如く阿弥陀如来一仏が強調されていますので、観音さんと勢至さんその他の仏さんについては「特に名指しでお呼びするに及ばない」というのが宗旨的一致です。

その点は多少の矛盾に思われる方もいらっしゃるかと思います。

出典の古い本来の経典と作法が重んじられているのです。

 

 また、もっと踏み込めば、「阿弥陀さんは迎えに来られない」、ということですね。それは親鸞さん以降の考え方だと思いますが、

「お呼びしなくても既にいらっしゃる」というところでしょうか。

 

 いらっしゃるのにもかかわらず再依頼するほどの失礼は無いわけなのですが、お頼み申す人間の不安=煩悩から発せられる思いでもあるので暗黙の了解のようなものがあります。そこにも真宗の「赦し」「赦される」の思想が漂っている気がしますね。

 

 ただし赦されることを知っていて儀礼的に法事を行っている私ども僧侶が「まぁいいか」とか「阿弥陀さんなら許してくれるだろう」とこちらから勝手に思い込んで何らかのはみ出した行為に及ぶことは「本願ぼこり」の一種として禁忌とされていることは以前どこかで記しました。

 

 もっとも二句目の内容は、「阿弥陀さん、あなたが本願として約束した通りに」という催促の文言が入っているところなどいわば「疑い」と「強要」とも思われかねないのところです。

 

 画像は当山の古めの来迎図の掛軸です。

所謂「お迎え」の図ですが、観音・勢至の脇侍をひかえて、三尊形式になっています。

②③が「先請伽陀」四句。先代の初期の頃は省略していましたが、私になってからは、決して上手にとは言えませんが必須にしています。

 

 やはりこの「先請伽陀」を冒頭に入れる事によってこれから執り行う法要に、棒読みの経とは違う、醸し出す非現実的な厳かさ?によって一層の気合いが入るというものです。

その場にいてそれを聞かされる方々にはたまらないかも知れませんが。

 

 

 

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    山さん、勝覚坊 (水曜日, 04 3月 2020 09:29)

    伽陀を詠んでました。意味を確り理解致しました。大切な事でした。

  • #2

    今井一光 (水曜日, 04 3月 2020 21:16)

    ありがとうございます。
    私も葬儀という重厚な式典の冒頭にあたるため、気合を入れて発声しています。