日坂の法讃寺とは親戚筋になるといわれます、牧之原市堀新田の轉輪山了見寺(場所はここ)は当大澤寺も古くからお世話になっている真宗大谷派のお寺です。
私どもが遠州に至った頃といえば永禄元年(1558)といわれていますが、当初は今の菊川、城飼郡(のちの城東郡)段平尾でした。
その後三方が原の戦い以降に相良の大沢に参ってから新町そして今の波津という場所と変遷していったわけです(大澤寺縁起)。
了見寺はお寺の縁起によれば後醍醐天皇の皇子、大塔宮(護良)親王の子がこの地にてその父の菩提を弔うために創建したとありますので、元は天台の寺だったことがわかります。
護良親王は天台座主でしたので。
例にもれず武田の駿遠侵食の際には寺領伽藍焼失させられ、三河岡崎に逃れていましたが、徳川安定期に入った元和元年(1615)に当地「寺ケ谷」に戻って開拓が始まりました。
岡崎という真宗繁盛の地にしばらくいたことからなのか、その時の「法琳法師」が真宗に改宗したそうです。
ということからその際に名のった寺号は「法林寺」でした。おそらく現在の「堀新田」(ほりのしんでん)という地名の「ほり」は「法林」から来ていることと推測できます。
尚「法林寺」としての名のりは短く、五十年弱で元の「了見寺」に戻しています。
以上のように寺として当地にあったその歴史は私ども大澤寺よりもかなり遡り、大澤寺が相良に来た当初の檀家さんのうち「元は了見寺さん」という家も散見されます。
2008年の9月に亡くなりましたが、生涯現役住職をとおした堀利恵氏が毎年1月1日の午前中には欠かさず新年の挨拶に見えていたことを思い出します。
叔母さんたち(父の妹)の堀前住職のイメージは「優しい人」であることは勿論、戦時下の食糧難でひもじい時に了見寺境内で採れた野菜類を目当てに相良から車を引いて行った叔母たちに、こころよく分けてくださったと。特に当時は境内に梨畑が大きくあって、その梨の味が忘れられないということを言っています。
その岡崎から戻った頃、了見寺を支えたご門徒で鈴木家一統がありますが、近年その流れから出た人にビタミンB1を発見した鈴木梅太郎がいます。
この牧之原市を代表する偉人として知らない人はいませんね。
当時は難病だった脚気(かっけ)の発病がこのビタミンの欠乏でした。
今は「疲れたらアリナミン」とサプリメントとして摂取できますね。
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