「さっとう」は静岡周辺のその魚の呼名。
「アブラソコムツ」が一般的な名称の大型の深海魚です。
刺身の食感は「脂ののった大トロ」のイメージ。
ただし厚生省が食用禁止の指定をしています。
理由は「さっとう」の脂分が人間には消化することはできない「ワックス」分で、要は「下剤を服用」しているのと同様だということです。
ラットの毒性試験では体全体からその脂分が染みだした挙句死んでしまうとも。
その魚、何故か当家食卓にあがります。
網にかかったそれは売り物にはならないため、市場に出さず、「顔」から「顔」で一般家庭に流出するのですが、当家にも時折御裾分け程度に回ってきます。最初のうちは面白半分で刺身で食しましたが、今や懲りてカラ揚げにしていただいています。体調によっても違いますがやはりその症状は出てしまいますので。
不思議なことは以前、頂戴した「さっとう」の刺身を「奥の墓道」に存分に振舞ったのですが(勿論、この魚のネガティブ情報は伝えずに)、翌日、何らの体調変化もクレームも無く、ピンピンしていましたので、人によって体調によって反応も違うものなのでしょう。
お通じが遠い方などはこのお魚を試すのもいいかも。
先般ブラジルにてサッカースタジアムを「お掃除」する日本人がYouTube等でアップされてから世界中にこの島国の住人の素性についてのご好評をいただきました。
世界の人が度肝を抜かされた事象だったそうですね。
ところがどっこい、その評価もいっぺんに打ち消されてしまうような悪評が世界を駆け巡りましたね。
例の「セクハラ(お)やじ」の件です。
きっと、「オモロイ野次で周囲を笑かしてやろう」くらいの、いたって軽い気持ちだったのでしょうが。
御当人とその場に居合わせたお仲間たちのウケは悪くは無かったようで言葉を発した方もご満悦の御姿が想像できるところです。
ところがそのお話は御当人の想像を絶するウェイトとスピードでもって巻き起こったブーイングが日本中どころか世界に広がっていきました。
先進国のマスコミの扱いは素早く、日本の顔、東京の時代錯誤的差別意識の存在について嘲笑していました。
すべての日本人がその感覚では無いのも事実ですが、あの事件は都民自らが選出した「衆」がお揃いになっている場でのこと。
面白いのは、徒党で箝口令が出ているのか、周囲の「知らぬ存ぜぬ」「聞いていない」とお仲間を護り通しての幕引き狙いが露骨すぎるという点ですね。
「いったいいくら欲しいんだ、カネならくれてやる」風の本音の言葉を平然と吐き捨てるほどの、おしゃべりで余計な事ばかり仰る方々が、ハッと気づいて口をつぐむ姿は滑稽以外の何ものでもありませんね。まあ、皆知っているのだが口には出さない(あるいはだせない)ということは分かります。
もっと面白いのは、発言者が「はい、私がやりました」と反省して手が挙げられないというところです。
もはやその発言の可否だけでなく、上記の点が日本人の素性というものへのマイナス要因として働いてしまうレベルになっているように思います。子供たちには「誠実」に「正直」にと煩く言う大人があの様ではまったく示しがつかないことも事実で人心は寒々しい限りです。
発言者が頑張って知らぬ存ぜぬを決め込めば決め込むほどお国の醜態を晒すことが長引くでしょう。
先に記した「善行」を打ち消してしまいそうな「暗愚」な心を披露してしまいました。
標記、「邪見驕慢悪衆生」とは御開祖が顕わした「正信偈」の一節から。
大きい意味で阿弥陀から見た「私」、究極のところの意では私自身が見た「私」のことです。まあ自身への猛省がそこにはあるのかも知れません・・・
そして「邪見」とは一言で「よこしまな心」。
「よこしま」な主観とは「たて・・」(経=経糸=指針=仏の教え=法)と相反する考えであり自己中心的態度の事です。
「驕慢」とは地位・財力にモノを言わせて高慢な態度で人の意に耳を傾けない姿勢を言います。
「弥陀仏本願念仏」から始まるその節は真宗第一かつ独特といってもいい教えで、色々と誤解がちに解釈されている「他力本願」と「悪人正機」について記しています。
「さっとう」食してすべてをあきらか(諦か)にしては如何?
その心は「全部流れます」ですが、それでもみなさん方、ガチにいきますか?
傍観させていただきます。
画像は直近御裾分け三題。
プラムにさっとうの切り身そしてくだりかつお。ごちそうさまでした。
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