「ありのまま」は最近のブームではありますが、人間はどうしても「高み」にいる「自分」を夢見て生きる動物ですので、その素晴らしい言葉が好きで、またそうあるべきと分かっていても背伸びして見果てぬ夢を追いかけるものなのです。
そのことが儚いとわかっていても夢を諦める必要はありませんし、その様に生きたとしても恥じ入ることでもありませんが。
Wカップについて何度か記しています。
「スポーツ庁」の新設の方向性といいお国が体育を支援するようになるようです。資金的、理論的に各方面のアスリートを支援するということらしいですね。
私の好きなサッカーが一層世界に近づければいいなと思っているところです。憎まれ口と思われる方もいらっしゃると思いますが、ハッキリ記させてください。
テレビ中継は民放系の解説者のお茶らけとハーフタイムのCMにイラっときてとにかくNHKは選択肢から外せないのですが、民放系でも以前からこの人の辛口のトーンは嫌いではありませんでした。
どうも最近はこの人も「絶賛」は無くとも甘口、肯定的なスタンスになったようで以前の様な容認擁護派の耳に障るような発言は潜んでいました。
ところが本日の日本戦終了後のコメントはかつての「辛口」が復活して、私も胸がスカッとしました。
レベルが「ありのまま」で良かったのか悪かったのか、ホントの事を語らないことほどの失礼はありませんし、耳の痛い痛烈な言葉もしっかり聞いてどのように改めるかを思考しなくては進歩がありません。耳を向けましょう。
標記は「サッカーキング」の取材に語ったセルジオ越後氏の冒頭の言葉です。
以下続きます。
「今大会の他の試合を見れば一目瞭然だ。日本はどの国よりも未熟で、どの国よりも走っていないし、迫力がない。
にも関わらず、一番期待されている国だ。海外組ブランドが喧伝され、選手たちは大スターのように扱われてきた。ヌルい親善試合と、本当のことを言おうとしないメディア。
強化よりも興行に気を取られてきた結果、自分たちの実力が実態以上に大きく見えるようになってしまった。
しかし、現実は隠せないということだ。
『自分たちのサッカー』がどうこうというフレーズが騒がれているが、一つ答えを出すとすれば、今日のこの試合で見せたプレーが、まさに『自分たちのサッカー』だよ。
本来の力を出せていないのではなくて、これが世界における我々の本来の力なんだ。そこを見誤っては成長がない。
他の試合をよく見てほしい」
この期に及んで「希望を捨てない」「まだある」と他の迎合型、保身型解説者は言いますが、私の気持ちとしては「絶望」以外の何ものでも無いですね。99.9%です。
「奥の墓道」には鰻重バクチ30杯にまで膨れ上がった私の勝ち点を元に一気に攻勢をかけて、日本がもしやベスト16に這い上がれたら「鰻重100杯」奢る宣言をしました。
もしそのようなことがあるのなら一生かけて彼に鰻重を償う所存です。私の方は敗退決定での130杯の超インフレ、反故にされても全然OK。鰻重1杯を楽しみにしています。
日本代表は11-10の数的優位に一気呵成の攻勢が掛けられず相も変わらずの単調さと、中央でのパス回しに終始。
ドリブル突破皆無に監督のメッセージ不良(選手のフォーメーション・交代枠1枚残し)が敗因でしょう。
オシムの言う「スペクタクル」な動きは皆無、世界からは低レベルのサッカーを酷評され、冷静なクレバ―さも垣間見られません。
ビビッて引きまくっているギリシャディフェンス陣は大男揃いですからね。ワンパターンでフワッとただあげたセンタリングはさぞありがたかったことでしょう。
相手の嫌がるサッカーをしなくては、「お嬢様、お坊ちゃまサッカー」と揶揄されても致し方無いところです。
このドローは負けと同じでした。コロンビア戦で一矢を報いたジェルビーニョのように外からペナルティエリアをドリブル突破できる人材がいないということと、失敗が怖いので、ついパスしてしまうのかわかりませんが、突破力こそが決め手なのですがね。
まぁここで選手が絶望してしまったら次にも試合が残っていますので「望み」を主張する世の日本代表ファンに失礼になりますから、コロンビア戦、しっかりやってくださいね。
もっともグループ1位のコロンビアはハッキリ言って消化試合。当然ながら決勝トーナメントの方に視点が移っています。大切な方は誰が見てもどちらかあきらかです。
早々に2点程度取ったら控え組に替えるか、ひょっとしてスタートから主力を温存しての日本戦になることも考えられます。屈辱的ですが現実を身に染みて感じてください。
コロンビア戦は2得点以上奪取のノルマがあるわけですがそれは殆ど悲壮感漂っていますね。
前がかりで攻撃的になることは必至ですので守りのサッカーにはなりえないのですが前がかりになればなるほどカウンターの餌食になり易く、逆に得点される可能性も強くなるのです。そうなればメゲて泥沼にもがくことになりかねません。一層の悲惨な代表選手を見せつけられることもありますよ。
まあ、そもそもあの「コートジがギリシャに負ける」ということが大前提であってのお話ですので、この事を「夢の中で見る夢」であるともいいましょう。
さて、先般「東京のお葬式」に出席いたしました。
導師を仰せつかって「空の無い」地(今、自分的に気に入っている言い回し)に向かったのですが、こちらの葬儀場は初めてでした。首都圏では6カ所目くらいでしょうか。
「郷に入っては郷に従え」はどちらの世界でも同様で、このような場合私の普段の「ありのまま」の相良ルールなど絶対却下です。初めての場所に伺ってイキナリ段取りを説明されて今回も驚かされました。
毎度遠征の場合、特に違う風習の見極めから始めて、練り直し何とかやり遂げるという感じですが、今回も勉強させられました。
御存知のように東京方面への特養等、介護施設の集中やら人口全体の集中によって、当然の如く、火葬場待ちのインターバルは1週間近くと比較的長く、スケジュールは相当混みあっています。時間調整は故人には酷ですが、冷暗室でしばしお休みをいただくということになります。
火葬場と葬儀場が併設されたホールは彼の地ではよくあるパターンで、移動は同一の建物の中だけで、便利といえば便利ですね。
通夜という前夜のプレ葬儀の法事はさすがに省略されませんが、葬儀式のスピードは驚愕でした。
当地相良では葬儀式と初七日法要、その間約10分の休憩と最後の「白骨の御文」の拝読と法話を入れて90分、サッカーの試合時間と同様です。
ところが私がこのほど伺った地での葬儀社担当の指示は「すべて20分で」終了させて欲しいとのことでした。
これにはさすがに驚かされました。というかあまりの難題に「ニヤリ」と自虐的に笑ってしまいました。
どう短縮するか考えた挙句、葬儀式冒頭の「先請迦佗」は通常通りのまったり感で唱えた後はそれからあとは殆ど「3倍速以上」の早さ。
初七日は「阿弥陀経」から「願生偈」の4倍速に差し替え焼香にまたがってしまいましたが、ごめんなさいで御文拝読。
少しでも真宗の葬儀に近づけなくてはと法話というか一言挨拶も入れて全行程23分でした。
真宗系の少ない彼の地にあって真宗系の寺院はどのように対応しているか興味がありますね。当地とは雲泥の差の綺麗な施設であのアッサリ感とさっさと仕舞う感、ある意味凄すぎました。
当地区の真宗のお寺さんに「法話は30分はしたい」と仰っている方がいますが、それでは「全部法話」で終わる事になってしまいますね。
坊さんにとっては「省エネでラク」でしょうが・・・。
葬儀に於いて坊さんが主役である必要はありませんがここまで来るとやはり「お供え」のイメージは否めません。
東京ならではのお葬式でした。相良からお出でになった方もいらっしゃいましたが「正信偈、付いていけなかったので途中で止めた」と。
この建物には四部屋のコンパクトな葬儀場があって同時間帯に二会場が稼働します。二部屋は空ですがそれでも当然にお経が館内「ハウリング」しています。
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