高天神城将の一人斉藤宗林については当HPやブログでも記しています。
HP
●斉藤宗林 下方(小笠郡城東村の字 下土方)を知行す。
天正二年落城後甲州に降り、のち浪人して駿河国宇津谷で討たれた。
その墓は静岡市寺町宗林寺にある。また嫁の墓と称するもの中村の屋敷址にある。→ブログ
私は頓着なしに「斉藤」と略して記していますが「斎藤」と記す方も見受けられますのでこのこともこの一統をわかり難くしているかも知れませんね。
斉藤宗林の死について実を言えば二通りあります。
こういうことは直系同名の名のりによる血族同姓同名の混同か、まったくの別人の同姓同名か、はたまた都合よく後世になって「歴史」を塗り替えたかですが、いずれにせよこういった矛盾はそう珍しいことでもありません。
斉藤宗林について、先日「丸子城」のところで「今川家臣団斉藤氏の丸子城」と記しましたが、その「斉藤」と何らかのかかわりがあることが推測されます。
今川氏真の駿府退去後に高天神城の小笠原信興(長忠)と同様にこれまでの今川から徳川方に主君を変え小笠原の高天神城に入って知行を得ていたと考えられます。
丸子は駿府同様に武田の手に陥ちていますので新天地を探すには目先一番の候補であったことでしょう。
丸子の「斉藤」についてはブログでも触れましたが今川義忠亡き後にその妻の北川殿(伊勢宗瑞-北条早雲-の姉か妹)と幼少期の龍王丸(今川氏親)を小川城の長谷川長者(長谷川政宣)に引き取って保護した斉藤安元です。
今川氏親の代になって当時その世界ではトップ級に躍り出た連歌師の宗長を氏親が駿河に招きましたが、斉藤安元は丸子城の根古屋に宗長の屋敷を建てて住まわせています。
その連歌師宗長の「宗」はそれまでの連歌界ではトップに君臨した宗祇や一休宗純の「宗」を伝承していることは間違いなさそうで、安元が子や孫に「宗」の一字を宗長より預かって「宗林」としたのではないかと。
何より、上記「高天神記」抜粋の彼が殺された場所として記されている地が「駿河国宇津谷」です。
宇津谷とは丸子の根古屋の谷の事を言います。
また丸子城の別名を「宇津谷城」とも呼んでいました。
宗林が高天神開城後に流浪したとありますが、先祖伝来の故郷に帰ったところを狙われたと考えるのが筋でしょう。
この件は高天神城関係資料によれば
「余りに富貴なる故、金銀で数珠の玉を拵え鎧の上に掛けて合戦に出ること甚だ隠れ無き者」
とあって相当の「お金持ち」だったと。
今川氏親の息のかかった(氏親の幼少期に面倒を見ていた)斉藤家であればこそ「やはり」という感じ。
武田勢から追われたとしても蓄えた財は地元に残している筈、これも納得のいくところです。
ただしその手の噂はどの時代に於いても命取りです。
その彼の物持ち具合を狙った賊による不意打ちによって宗林は討ち取られたというのが「高天神記」の記述です。
ところが駿河の宗林寺さん(場所はここ)にある彼の墓碑には、元亀三年十二月二十二日の三方ケ原の戦いになっています。
新しい墓ですので改葬されていますが、今のお寺の紹介についての記述を見てもそうありました。
高天神史料によれば流浪して賊に襲われて殺されたのが勝頼に高天神城が陥された天正二(1574)年以降のこと。
三方ケ原が元亀三年(1571)ですからそこで亡くなっているとすれば「高天神城御前曲輪主将」などという話もウソになってしまいそうです。
私はハナから高天神関係史料を見ていますので、「三方ケ原戦死説」というのと「家康の側近(お寺の紹介)」という話には違和感があります。
話は飛びますが斉藤宗林は高天神衆として姉川辺りまで行っていそうな気がしますね。たまたま七本槍ほどの活躍は無かっただけだと。
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