北国街道と北国脇往還に分岐する要衝地、木之本について何度かブログに記しましたが、やはり戦国通に忘れてはならないのがこの山、賤ヶ岳(しずがたけ 賤ヶ岳砦)ですね。
登城は小谷城全域尾根踏破したあとだっただけに邪道であることは判っていながらもあの乗り物(一人乗りロープウェイ)を選択してしまいました。
山頂は景色も抜群で案外観光客が多かったです。
天正10年(1582)本能寺で滅した信長後を占う清州会議は一旦はまとまったかに見えましたが禍根を残し、光秀を討って俄然名をあげて発言権を増した秀吉と信長体制を真面目に維持しようとする柴田勝家(修理亮)の両雄の決戦が繰り広げられたのが翌天正11年の「木之本」の地でした。
「秀吉×勝家」の勝負は①当初知行地の差②両者の性格の差とによって決まっていた様にも感じます。
ポイントは柴田勝家に秀吉の居城、長浜を譲れとケチをつけてそれを拒まずスンナリと秀吉が引いて山城国という地に移ったことでしょうか。
丸岡城に居た甥の柴田勝豊を配して秀吉に調略されて相手の駒にしてしまうという「最悪」と秀吉には京都・近江という地で自由に動けるチャンスを与えて、自らは冬場は雪で身動きのできない北ノ庄に居て結果的に「何もできない」状況を作ってしまいました。
「人たらし」たる秀吉が機敏に動き回って自陣への引き入れ工作をしない筈がありません。雪で埋もれた冬の北ノ庄は双方の当初互角の勢力バランスを秀吉有利の方向に変えたといっても過言では無いでしょう。
勝敗がはっきりした決定的事件は謎の事件「前田利家戦線離脱」でした。それを機に柴田軍は総崩れとなって敗走の憂き目となったのでした。それ以前に特筆すべきは秀吉の「中国大返し」の二番煎じ、といっては語弊がありますが、機動的な動きで後世囃された「美濃返し」という相手の意表を突く反転がありました。
大垣城に居た秀吉は脇往還を下って5時間で木之本に着陣したといいます。
調子に乗って柴田の意見を入れなかった佐久間盛政は大慌てで撤収を開始、本戦突入はこの機を見逃さなかった秀吉の一気呵成によって始まりました。
戦国時代の布陣は、当初対峙して均衡を保っていたとしても基本的に相手に背中を見せた時、陣を解いて退却する時が大負けする時の最大のタイミングです。
僅かな綻びが出て陣を引く時であっても結果かなり危ういことになりかねないのが撤退時となります。
退却時の殿(しんがり)が最も危険であると云われる所以ですね。
そのことを熟知していたのが、信長でした。
特に浅井親子の籠る小谷城を包囲し、越前から朝倉義景をおびき出し、まんまと出てきた朝倉勢の撤収時期を模索したという話はあまりにもその狡さに溜息が出たものです。
あの時小谷城の同峰でさらに標高の高い朝倉方の大獄城(おおづくじょう)を落しますが降伏してきたそちらの城兵を解き放ったといいます。
その温情の深さと、強さそして大嶽城の陥落につき完膚なきまでに「やられた」ことを大将朝倉義景に確実に伝え、義景が陣を解いて一乗谷へ退却するタイミングをお膳立てしたものですね。
信長の一計の通り背中を向けた朝倉勢はここぞと襲い掛けてきた信長勢にズタボロに殲滅されています。この時は敗残兵は容赦無くなで斬りにしています。信長に温情などある筈がありません。
賤ヶ岳の戦いは関ヶ原の戦いにも似ています。
ポイントは大垣城が共通していますし、戦前の秀吉の際立った調略、本体の大移動、前田利家の土壇場の裏切り、そして長期政権の樹立。
家康がお手本にするが如くでした。
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