山内一豊は長浜城、秀吉の代務時代に宿場町木之本を管理していましたがその後は佐和山を本拠とする石田三成知行地となります(→こちら)。
一豊がこの宿場町恒例の牛馬市を知ったのは勿論、唐国400石を得た直後でしょう。
というわけで、あの「摺墨(するすみ)」をこちらで見初めて購入したのですがそれに妻のへそくり話という「内助の功」が加わったことと・・・。
もともと「摺墨」と呼ばれる名は名馬の愛称です。
その表す名の通り、真っ黒で黒光りするほどのスマートさを連想しますね。
良き馬というものは高級武士の乗り物ですが、イメージとしては殆ど一人乗りのスポーツカーの如くで、その良し悪しによってもそれを駆く武将の本性についてまず周囲からは「デキる人」と評価されるものでした。
平家滅亡の途を降り始める頃、平宗盛が源仲綱の鹿毛(かげ)の名馬「木の下」(このした)を陰湿に奪い取るのですが、仲綱がなかなかその馬を惜しんで宗盛に渡さなかったため、手に入れた後、馬の名を「仲綱」と改め、馬の尻に「仲綱」と焼印まで入れてその名を呼びすて辱めたといいます。
その後、源仲綱は画策し以仁王の決起に結びつきますのですから、他人様にやたらと意地悪するものではありません。
そのくらい武士の「馬」への思い入れは深いものがあるのです。
「摺墨」の名は平家物語にも出てきます。頼朝が梶原源太景季に与えた馬の名です。
佐々木高綱と宇治川(義仲戦)の先陣争いのお話の中に出てきますが、話の中では「一番」の馬は「摺墨」ではなく「生食(いけずき)・・池月」という馬だったようです。
「生食(いけずき)」という名は呼んだ通り、やたらと喰いつく獰猛な馬だったということ。
画像はウィキより、手前が「生食」に後方が「摺墨」。
以下地元掲示板要約。
木之本の牛馬市は室町時代から昭和初期まで年2回この宿場の通りで開かれていたようです。
20余軒の民家を宿として、お上の保護というお墨付きもあって近江はもとより但馬、丹波、伊勢、美濃、越前、若狭から多くの牛馬が集まって繁盛を極めたとのこと。
コメントをお書きください