昨日ブログ虎御前の略図⑤画像を見れば噂の通り秀吉が小谷城と対峙するように張り出した場所に陣取って、イザという時には彼の持ち場(曲輪)から上段にある総大将、信長の前衛として鉄壁となって守備し、信長を後方に逃がせるべくかつ、先鋒的場所にあったのだということを確認できたわけです。
実際に尾根を歩いてみれば、信長陣址まで徐々に上りその後の降りの先、殆ど前方が開けた場所に秀吉の陣址がありました。
ところが、これは柴田勝家の陣址を見逃してしまったと不覚、慌てて来た道を引き返すも、信長の陣まで戻ってもそれといった標識等見当たりません。
さして広くも無い尾根をどう見回しても見つかりませんでした。
どうしたものかと、秀吉の陣址と言われている場所からさらに降ってみることとしました。
ハイキングコースの降りになりますので、小道はありますが、間違った方向でまた登り直すのはキツイ行程と思いつつ少し歩けば、スグに柴田の陣と云われる場所に巡り合えました。
何のことは無い、秀吉の陣より下方でどちらかといえばこちらの方が小谷寄りですね。
この位置関係は微妙ですね。
あくまでも伝承ですから致し方無いのですが、「ネコの世界」と同じであの時代の地所の高低差はやはり、身分の差が出てくる筈ですね。
ところが位置関係としても最前線は柴田の方でそれも崖っ淵(画像⑨)。
夜もおつおつ寝られないような場所の様に思えました。
当時信長家老では柴田家といえば筆頭。
柴田からすれば木下などは「ムカつく売出し中の侍大将」といった感じだと思います。
柴田が恰も秀吉の陣を守るような陣形にあることは俄かには信じられません。
この「伝」というものの信憑性に疑問が生じたところです。
また、画像⑧「木下秀吉」という呼び名もどうも違和感がありますね。そういう呼び名も有りえた時期があったことはわかりますが。
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