戦国史上、謀略と短慮と勝手気まま、そしてやたら人を殺す、いわゆるタチの悪い「暗愚の将」の烙印を押されていたのが信長の三男、織田信雄。たいてい「ノブカツ」と読ませていますね。
どう考えても、絶大な有力者だった織田信長の「七光り」、小さい頃から「売出し中」の神聖優良家系のボンボンとして何不自由無い我儘な成長を遂げたと思います。彼が3歳の時に「桶狭間」ですので、織田家うなぎ登りの真っ只中に育ちます。
失敗談は数限りなく、「あの男ならやらかすこと」だと呆れ果て、吐き捨てたような標記のような言葉が家中にあったといいます。
彼の失敗談と非情・非常は各各お調べいただくとして、現代においてもその手の「後ろ指」的評価はよく耳にしますね。
もしかすればそれこそ私がそう周囲より思われていたのかも知れませんが・・・。
しかしながら、新聞三面記事等、何らかの事件が色々な場所で日々起こって、それはそれは枚挙に暇が無いのではありますが、その周囲の声は何故か大抵、「信じられない」「なぜ、あの人が」です。
「いつかはやらかすと思った」などの声はほとんどありません。
不思議な事です。案外、人の人に対するイメージというものはかなりイイ加減なのでは・・・と思ってしまいます。人は断片的なところばかり見ていて適格な評価が出来ないこともありましょうが、本質的に腹黒くて、いつでも被っている羊の皮を脱ぎ捨ている用意をしているのかとも。
かといって人間をすべてそのように考えてしまうことも怖いことですが、親鸞聖人はそんな時、「人というもの」は「こういうもの」と断じた言葉があります。
やっぱり親鸞さんの時からそうだったのですね。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」
『歎異抄』の言葉です。
スタンプで押したが如くの「人の評価」・・・ここでは「極悪人」等・・・聖人は、「その悪人にはちょっとしたことでいつでも誰でもなることができてしまうほどの自分がそこにありますよ。そんなやたらな目で人を見なさんな・・・」といったところでしょうか。ここにも「目くそ鼻くそ」的自分を差し置いての評価があったのかも知れません。
前住の引退から数年、「寺の住人」としてあっぷあっぷと溺れそうになって、その流れに浮遊しているが如くの拙僧ですが、ライフジャケットでも得たかの如く流れに身を任せる術を得て、「出来ない」という諦観を盾に「ズルく振る舞う自分がそこに」あるようにも映ります。
イイも悪いもこれが「処世」だったら真宗に特化していると雖も坊さんとしての仕事は限界でしょう。
親鸞聖人が一番嫌う所です。かといって彼の人は誰でも許すのですね。
だから「それはそれでいい」と言ってくれそうなのです。
その理由はやはり親鸞聖人自身が「出来ない」「ロクでなし」「限界」を身のうちに実感していたからなのかも知れません。
また「処世」といえば源信さんのお母さんの歌がありましたね。
後の世を 渡す橋とぞ 思いしに
世渡る僧と なるぞ悲しき
痛烈です。「利他第一」をうたっているのですね。
「処世術」なる言葉がありますが、これは自分中心の目で見た「世渡りのうまさ」の事でした。
画像は安土城の織田信雄系四代の供養塔。
バカ・アホ・ウツケの代名詞の信雄でしたが子孫は残して血脈は続きました。堅実巧者名声と褒められて、それでも滅亡した将はいくらでもいますから、大いに「勝ち残り」の人です。
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