復習です。「東海道五十三次」とは、東海道の江戸日本橋から京都三条大橋までの間にある五十三カ所の宿場(駅)の事を言いますね。
どちらから数えても27番目の宿場町が遠州袋井宿で丁度真中にあたります。
袋井宿をぶらつけば「どまん中茶屋」(場所はここ)とちょっと変わった名前の「出店」が目に入ります。
東海道の真中にある袋井市でも市庁舎や警察署のある市の中央にあたりますのでこのような名前でもって「売出し中」なのだと思います。
駐車場はやっと3台が駐められるくらいのスペースはありますので何とか車を置いて覗こうとすると・・・。
中から気さくな感じのおばちゃんが、「どうぞどうぞ寄ってって」の掛け声。
客引きの声と割り切っても「何か珍しいものでもあれば所望しよう」という気持ちで招かれれば、意外や袋井市のお茶の接待所でした。そちらで腰かけて少々待てばおいしいお茶の提供を受けられました。
別のお客も「お代金は?」と聞くくらいですが、「無料です」と云われて驚いていました。
これは観光客をもてなそうという意図で出店されたボランティア(ガイド含む)の方のサービスでしょう。
袋井市の観光課や観光協会が絡んでいるのでしょうが、「さあさあ、何杯でもどうぞ」という明るい接客は、相手を心地よくさせる心意気が前面に出て、「旅人」をちょっとした憩いの雰囲気にいざないます。
「店内」にはさすがに販売用の新茶が置いてありましたが、商売や利益を度外視して殆どサービスに特化しています。袋井市には余裕がありますね。さすがです。
さて「どまん中茶屋」の前の道を西に3ブロックも行ったT字路つき当たりに、観福寺があります。
この寺には姉川の戦いで戦死した坂部正家の長子、坂部治兵衛正定の墓(供養塔)が寂しそうに建っています。
坂部家は松平家譜代の家で正定も家康のもと各合戦にて戦働きをしています。特に元亀三年(1572)の三方原では土屋昌次の馬を奪って家康に献上したといいます。
ところが、やはり家康恩顧の平松金次郎という人が小牧長久手の鑓働きで名をあげますが、恩賞が少なかったところに上方(豊臣秀次)から槍の使い手としての引き抜きオファーがありました。平松は家康を離れて大坂に向かったというわけです。
その手のことは天正十三年(上記二年前)の石川数正が秀吉の元に出奔した例があったため、家康はその平松の心変わりに腹を立て、追手を差し向けました。
その編成された追手の中の一人に坂部正定がいたのですが彼らは袋井の地で斬り合いになり坂部は半ば平松に返り討ちに合うほどの手傷を負ってこの寺に担ぎ込まれたようです。
平松は捕まって腹を切らされましたが、坂部もその後絶命とあいなります。
家康のために忠実に働いて落命したということで家康は可睡斎から呼び寄せた仙麟等膳和尚という坊さんに坂部正定の菩提を弔わせるため、この寺を改宗させたといいます。
その際葵の御門の使用を許したそうです。
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