観音寺の裏山は横山城  姉川戦のポイント

石田屋敷からほど近い「三献の茶」の観音寺の裏山が横山城(場所はここ)です。

浅井長政が南近江の観音寺城(昨日も記しましたが上記「観音寺」とは違います)の六角氏を意識して整備した城で(古くは京極氏支城)、本城の小谷城とスケール的にも引けを取らない「さすが近江の山城」と唸らせます。当然、疲労度もまずまずですね。

されど人気度は高い城でハイキングコースにもなっていますので道はそこそこ整備されています。

 

 麓の「石田三成に関わる界隈」は平地で、見どころは比較的まとまっていて、見て回り易いために世にいう「三成ファン」は大抵がそこまでで十分に満足しておしまいでしょう。

ところが私どもにしてみれば、この城へ参らずは片手落ちどころか、そもそも当地への訪問はこのお城に登ることが1番の目的なのでした。

 

 浅井長政は当初一統の浅井井演(いひろ)を城に入れています。

元亀元年(1570)織田信長は小谷城の鼻先の虎御前山に布陣した後、小谷城を攻めるにあたり、まず落とすこと不可欠の城として横山城を包囲します。

浅井軍にとっては絶対に譲る事の出来ない守るべき城です。

結果的にその城を支援するために出た浅井朝倉軍と織田徳川軍が激突したのが姉川合戦でした。

 

 横山城落城後に秀吉が入って小谷城攻略の拠点となってしまい、長政からすれば苦労して整備した小谷前衛の城が今度は自分の敵(かたき)の城となってしまったことはやるせないことだったでしょう。

天正元年(1573)の浅井家滅亡までの3年間織田方の橋頭保として存在価値を表しました。

 

 姉川戦の緊迫期に野村直隆という人が横山城主としてありましたが、姉川の「野村」という地名と同様、近江から大澤寺開祖今井権七とグループで遠州に向かった五家の一つ、野村家との関係も推測されます。姉川合戦を当初は「野村合戦」と呼んでいましたね。

 

 横山城の本丸(臥龍山312m)へは日吉神社からのハイキングコースを利用します。

淡々と城の施設、土塁・堀切・堅堀・曲輪・虎口等を横目に本丸を目指してハイキング気分も同様に満喫しながら何とか心臓ばくばくで到着します。

 

 山頂で景色を楽しんだ後こういう場合まず、来た道を引き返すのが常道です。

元の道へ戻れば安全に必ず下山できるからです。

ところがこの時(2012年夏)は「観音寺」への下りを選択しました。

 

 こういう規模の大きい城をそもそも短時間で見て回ることは不可能なのでして、同じ道を引き返していては「新しい発見」は無いのです。特にこの城は変則Y字型に尾根があって登城口も幾つかあります。

 

 しかしその下山方法は結構リスキーです。

たとえば山の登山口と降り切った場所が180度違えばその山の円周をグルっと歩いて戻ることになります。

現在はスマホで現在位置を確認できますのでただ疲れるだけで問題はありませんが城の形状次第では何より未知の世界にあって方向が分からなくなる恐れがありますね。

 

 たまたま観音寺という目標がありましたので向かったのですが、その道は途中までは「存在」していたものの直前に来た台風のために「消失」していました。下山は酷く難儀しましたが(現在はどうなっているかわかりません)、「今更戻れない!!」(日ごろ良く使う台詞・・・)とただ竹藪と雑木が覆いかぶさる下り斜面を見えてきた観音寺の本堂の屋根を目標に泥まみれで降りました。

 

 案の定観音寺に降りたものの、元の登城口に戻るには相当時間を要しました。たまたま通りかかった米原市の伊吹高校の学生に道を聞いて元の位置に辿りついたという次第です。

登り口が長浜市、降りた場所が米原市というのも勘を鈍らせる要因になりました。自分の地理感覚、米原のイメージはもっと遠くでしたので。

 

山頂からは夏特有の琵琶湖周辺の霞みがかかっていますが伊吹山が見えます。観音寺への降りには各所に石仏が配されています。画像は阿弥陀さま。