「三献の茶」の石田三成の水汲みの井戸のある観音寺は三成が寺の小僧として秀吉の接待をしたことで有名です。
ただし安土山続きの繖山(きぬがさ山)の観音正寺―観音寺城とは別モノですね。
その寺のごく近くに石田町があります(場所はここ)。
現播磨、中国攻めの大河ドラマ中にあっては、秀吉に「佐吉!」と呼ばわれて小間使いの如く動いている「利発な小僧風」がのちの石田治部少輔三成です。
「治部少輔」(じぶのしょうゆう)という官職名は=「従五位下」(「貴族」の仲間入り)で秀吉の「関白」と同時期ですので、25歳。信じられないくらいの出世振りです。
ドラマではその官職からその「治部」(じぶ)に呼称が変わってくるでしょう。
まさに秀吉のポイントにハマったという感のある三成ですが官職の「治部」は彼の出生地と云われている秀吉の長浜城からも遠くない現在の石田町の小字にもなっています。
また古くからここは「ごいで」と呼ばれる地だったようです。
石田家はその名の通り当時の石田郷の「国人」というか家の大きさでいえば「土豪・地侍」層だったのでしょう、当初は当然の如く当地を治めた大名の京極、浅井系の家臣団の一画でした。
三成の父親である正継が三成を近隣の観音寺の小姓として入れていたことから「歴史」は変わって行きます。
思わぬところから石田家は取りたてられるようになって正継は三成の代官として治めた堺奉行代官、佐和山城城代になります。息子の早い出世を後ろから見守っていました。
将に「我が世の春」の思いだったでしょう。
しかしながら人生の儚さ、「イイ思い」はいつまでも続きません、関ヶ原で西軍敗走ののち三成捕縛の前に佐和山城は東軍の次の標的となってそちらで自刃しています。
「何が幸で何が不幸か」わからなくなるようなストーリーが展開していったわけですが、三成をあの寺に出して秀吉の目に留まることがなかったらその石田姓は世間に残る事は無かったでしょうが、石田の家系はずっと続いたかも知れません。
そしてまた、関ヶ原の戦いが三成の過度な豊臣家へのはからいと(それは致し方無いにしろ)、台頭した家康との確執はむしろ豊臣家滅亡を早めたといっても過言では無いと思います。家康は三成を標的とすることによって豊臣家を崩したという史実は紛れもないことですね。
徳川の世になってからはこの地区の火もうって変わって消えてしまったことでしょう。
石田会館に行けば近所の方が出てきて、数年前まではやたらと「女の子たち」(歴女?)が訪れて賑やかだったとのこと。
現在も佐和山城と同じく女子の訪問が比較的多い史跡であることが判りました。
付近には三成派の諸将を案内する看板と石標が建っています。
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