「桜が終わったら藤でしょ」「藤を見るならここでしょ」と檀家さんの車に便乗させていただき訪問したのが遠州豊田(磐田市)の行興寺へ。
「ちょっと早いかな」の言葉の通り、長ーく垂れ下がる(1mくらい)までは「まだ少し・・・」でしたが、好天の中、良好な藤の香りの漂う境内を散策させていただきました。
こちらには国指定1本、県指定5本の天然記念物の藤の古木他、藤棚が広がり、それらが満開ともなれば風景はさらに一変することになるでしょう。
当然の如く磐田市では開花期(GW期)にあわせて「長藤まつり」なるイベントを催しています(サイトへ)。
。
以前紹介した匂坂城址近くの天竜川東岸の平坦地で、より川堤に近い場所になります(場所はこちら)。
よって藤の見頃となる観光ピーク時付近は駐車場が天竜川河川敷に用意されています。
「熊野の長藤」は謡曲「熊野」から来ていますので読みは音読みで「ゆやのながふじ」。「ゆや」と読ますのにはおそれいります。「熊」の字を「ゆう」と読みましたね。
時は平安、我が世の春を謳歌する平清盛の三男、のちに平氏没落期における平氏の棟梁となる平宗盛が遠江守に任じられて見付に下向した時の愛人「熊野御前」のお話です。
平治の乱の戦勝勲功で与えられた平宗盛の位階、遠江守は12歳であり、妾を京都に連れ帰るなどという話はちょっと眉唾ですし、もともと「国司」としての遠江守の叙官は名目で、実際に下向しているとは思えませんのでやはり謡曲「熊野」の演出でしょう。
作品は平家物語からヒントを得て室町期に記されたものですが、やはり元は「遊屋」「湯谷」という語彙も見られ推測ですが遊女を示唆している風もあります。
それではストーリー。
平宗盛の妾として京にいる「熊野」に遠江の母親の病気の連絡が入ります。帰郷を願う書面ですね。
ところが清水で催される桜の花見と宴会を理由に宗盛はそれを拒絶。
しかし花見に連れて来られたものの「熊野」は気もそぞろ、しかし健気に振舞います。
その時、彼女が母を思う歌を歌い(下の画像①)、それに感じてさすがに宗盛は帰郷の許しを与えたというものです。
平氏滅亡の壇ノ浦では、食い意地が張って太っていたから海に沈み切らずに捕縛された等、色々と彼の見苦しさ、狭量さが平家物語に記されています。前回大河ドラマでも「嫌らしい人間性」が描かれていました。
宗盛は壇ノ浦で捕縛されたのち京都、鎌倉へ連行されます。そして近江で処刑(39歳)されていますが、東海道見付からこちら付近を2度通過したことになりますね。
「熊野」は宗盛没後出家して33歳で亡くなったといわれますがその命日5月3日がなぜか彼女の植えたと云われる長藤の盛りというのがポイント、うまくできています。
お寺の本尊は恵心僧都作といわれる十一面観音、裏手には市が管理する能舞台が。こちらで「熊野」が催されるそう。
彼女と彼女の母の大き目な宝篋印塔が2つ(画像②③)にその間に小振りの宝篋印塔(画像④)。その背後(画像⑤)にも小さな五輪塔、宝篋印塔の残欠が見られます。
墓石は祠背後の柵に囲まれた空間にあってバランスのいい画像は撮れませんでした(下)。
墓石(画像②③)も1.5m程度あってなかなかの大きさです。
左側が熊野、右側がその母の墓と云われています。
当然に鎌倉期の創建は想像できますが、伝承はともかくおそらくは磐田国府見付のかなりの有力者一統の墓だと思います。
下の画像、ぽっちゃり顔の平宗盛。
コメントをお書きください