当然の如く墓碑が建碑されるということはどなたかの「死」があることがきっかけです。そこにはその人(被葬者)の「生」を顧みて思い「追善」し、また送る者たち自らの「生」を主張するという「意志」が存在します。
たった一つの小さな五輪塔にも「その時」を一處した家族等多くの人々の思いが籠っていることが推測できるのです。
あの司馬遼太郎も『街道をゆく』で記しているこのお寺を訪ねて、あのたくさんのお墓たちを拝見した時、圧倒する墓碑の数には驚かされましたが(人為作為を感じないわけではありませんが―整然と並べられたのは昭和初期)、生きていても死んでからも、ただ世界が変わるだけで「一人ではない」とあらためて感じさせられますね。
たとえ路地の脇や山中にポツンと建っている五輪塔でさえも、「亡き人」とその建碑に関わった人たちの、何らかの「思い」があることを想像するわけです。
それがこの数ですからね。たくさんの人たちの関わりが集結した場所で、いわばこの集合体の密度は「街」のようにさえ感じます。
さて、古い半島系百済の三重塔のスグ近くに、これまた文化財指定の石塔が建っています。
1003年比叡山の僧、寂照が入唐しました。最澄の入唐が804年ですから約200年後です。
寂照が五台山という場所に滞在中の話、「大昔、インドの阿育王が仏教隆盛を願って撒布した仏舎利塔が8万4千基。そのうちの二つが日本にあって、一つは琵琶湖に沈んだが、あとの一つは近江国渡来山の土中にある」と聞き及んだというのが事の発端だそうです。
私など現代人としては、五台山の人でもそんな大昔の大層なスケールのお話を知り得る立場の人では無いことくらいは判りますので「根も葉も無いヨタ話の類」として笑って済ますところなのでしょうが、寂照は「これは一大事」と思ってか日本へその情報を送ります。
当時の唐と日本の手紙のやりとりは相当のタイムラグがあることと、話としてあまりにも「空想」の域であると解釈されたのか、義観という僧が真面目にその情報を解して当時の一条天皇に上奏したのが、寂照が手紙を発した三年後。
そこで天皇の探索作業の命が下りたとのこと。
命を受けて動いたのは野谷光盛という人ですが、その山に塚山を発見。天皇の勅使の平恒昌とともに掘り返したところ、この阿育王塔が出土したという伝承です。
画像①宝塔は鎌倉期、正安四年(1302)、野谷光盛の石標があります。②は「勅使の墓」五輪塔二基は鎌倉、室町初期、㊧嘉元二年(1304)と㊨貞和五年(1349)のお墨付きがあってすべて重要文化財に指定されています。
一条天皇はこの寺を勅願寺として七堂伽藍を配しましたが例に違えず織田信長の手で焼き払われています。
私の行く場所は極端に、人影は稀ですね。
私、唯一人「大観衆」に迎えられて、少しばかり照れくさくなりつつ、天候にも恵まれて、和気藹藹(李邕-りりょう 「春賦(はるのふ)」の「和気藹として寓に充つ」)のうち贅沢にも散策を満喫させていただきました。
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